『アインシュタイン伝』を書いた矢野健太郎による、角の三等分問題を平易に解説した 1冊。原書は、昭和18年という時期に創元社から出された「科学の泉」というシリーズの中の 1冊である。こと科学関係に限れば、太平洋戦争中に著された名著は存外と多い。乱歩の『芋虫』は発禁になったが、一方で、「角の三等分」という浮世離れした問題を考える書物は出版されていたのである。
話が逸れた。「角の三等分」は、ギリシアの頃より数学者を悩まし続けた 3つの幾何学問題の 1つである。3つの問題とは、
幾何学の問題であるから、いずれも両脚器 (コンパス) と定規しか使ってはならず、かつ、有限回の操作しか認められない。結論からいえば、いずれも不可能である。
本書は、このうち、角の三等分がなぜ不可能か、に焦点を絞って解説している。任意の角を三等分するという幾何学的操作は、
x3 - 3x - a = 0
という三次方程式の解を求める代数的操作と同じであることを意味する。この方程式が有理数の解を持たなければ、角を三等分できない。そういうことが諄々と解かれている。
フェルマーの最終定理でもそうなのだが、この問題は、問題自体は容易に理解できる。そして、幾何であることから、何となく解けそうな気もする。「角の三等分は不可能」ということが証明されてからも、「三等分できた」と称しては論文を送り付ける輩が、古今東西絶えなかったようである。
本書においても、一松信の解説の最後に「角の三等分屋」という文章があり、いわゆるトンデモな人々の生態が面白く綴られている。また、数学書の編集者である亀井哲次郎の『「角の三等分家」と付き合ってみて——しんどかった』というエッセイも収録されており、これもまた面白い。
京極堂シリーズ第8作。
前作『陰摩羅鬼の瑕』とは一変し、『絡新婦の理』『塗仏の宴』で見られるような、複数の事件が多数の人間の一人称で断片的に語られるスタイルが復活。したがって、全体は極めて複雑でありながら茫洋としている。中心となるのは連続毒殺事件なのだが、その「連続性」がどうにも心許ない。証言や証拠は次々に上がってくるが、それらが全体像の中で何を意味するのか、どこに当て嵌まるのかが皆目わからないのだ。
中禅寺の活躍は少なめ。この人は、作を追う毎に働かなくなるなあ。前回は関口が重要な役割を演じたように、今回は榎木津が重い責任を担わされる。かの探偵の、普段は見られない表情を観賞できるのも、本作の魅力の一つである。
「日のないところに書け無理絶えず」というサブタイトルが付いているが、恐らく意味はない。
森博嗣のブログ「MORI LOG ACADEMY」を 3ヶ月毎に文庫にまとめているのが本シリーズである。だったら Web で見れば良いじゃないかという話なのだが、多分、まとめて読んだ方が面白い。そのような読み方を想定して書かれているフシもある。
俺自身も日記を書いているので、「このように書けばウケるのか」という目で読んでしまう。面白い発見もある。「このように書けば、理系ではない人から『理系っぽい』という認識を得られるのか」とか。何か、凄くイヤな奴だな、俺。「理系っぽい」と思われたところで何の利益もないわけだが。
副題に「今、日本に必要な品格と見識」とある。
今日、自民党総裁に安倍晋三官房長官が選出された。近々、総理大臣として組閣するのは確実である。
さて、本書では歴代の総理大臣の事跡を振り返りつつ、「宰相」に求められる条件とは何か、現在の日本の「宰相」に相応しいとは何か、が問われている。福田は、これまでの宰相をその歴史的意味合いから 6世代に分類し、小泉純一郎首相をもって第7世代の嚆矢としている。
小泉首相が新世代とされる理由は、国民が「直接民主主義的なメンタリティで、自ら首相を選びたがっている」からであり、「そして、小泉首相誕生の瞬間、多くの日本人は、自らの手で首相を選んだように感じた」からである。今回の安倍総裁誕生の経緯を振り返ったとき、なかなかに鋭い指摘であると思わざるを得ない。
さて、上記のような現在の国民のメンタリティは「政治意識の高まり」といえるのだろうか。容易に予想できるが、福田和也の意見は否である。それは「悪しきポピュリズム」に堕する危険を常に秘めている。問題は我々の「政治熟成度」であるのだが、この手の議論がいつも陥るように、ではどうすればそれが高まるのかという具体的な提案はない。せいぜいが「自覚を持て」というくらいで、まァ確かにそれくらいしか言うことはないわな、と俺も思う。
京極堂シリーズ第7冊。文庫版が出たので再読。
「おんもらき」とルビが振ってあるので、ああそうか、と流してしまうのだが、よくよく漢字を見てみると、「摩羅」って「マラ」ではないか。「陰マラ鬼」。イヤらしい妖怪である。
あらすじは比較的シンプルだ。元伯爵である由良家の現当主・昴允の許に嫁ぐ女性は皆、婚礼の翌朝の、ほんの僅かの隙をついて殺害される。全く同じ事件が過去に都合 4回も起きているが、犯人はおろか、手口も動機も不明。そして今、伯爵は 5度目の結婚を控えていた。惨劇の連鎖を断ち切るため、今回は探偵として榎木津礼二郎が呼ばれていた。そして成り行きで付き添う羽目になった関口の姿も。果たして 5度目の犯行は防げるのだろうか。
これまでのシリーズに比べ、事件が単純に過ぎるのが大きな特徴だろう。舞台も「鳥のお城」と呼ばれる伯爵邸に限られ、登場人物も少ない。作中で看破されるまで真相がわからなかったという読者は少ないと思う。
今回は関口が大きな役割を演じている。事件の主人公であり、極めて特殊な人間でもある伯爵と一対一で議論を繰り広げる場面も多い。そして、関口は自ら真相に至るのである。が、謎解きはやはり京極堂。関口の口から、彼の辿り着いた真実を語ってほしかった、と思うのは俺だけか。
みうらじゅんが収集したカスハガ (カスのような絵葉書) をカラー写真で紹介した 1冊。
絵ハガキは最低でも 10枚という枚数がないと、セットとして売っていない。「う〜ん、10枚も見せる場所がない! マズイ!! え〜い、こんな場所だが入れておくか……」。この無理しちゃった気持ちが "カスハガ" 生誕の秘密に違いない。そんな絵ハガキを送る方はまだしも、出される方の気持ちはかなり複雑だ。これが、カスハガの基本である。
(「カスハガを愛す」)
カスハガの写真はどれも珍妙なものばかりである。そんなカス写真に対して、その写真が撮影された前後のシチュエーションを著者謹製の漫画が突っ込む、という形式 (カスハガの写真がその漫画の 1コマとして挿入されている、といえば想像しやすいだろうか)。みうらじゅんの漫画もカスみたいなものだが、それだけにバカバカしさは倍増である。
日本、いや全世界各地で売られている、ワケのわからない、全く意味不明な土産物の数々。みうらじゅんが収集したそれら (いやげ物) が、カラー写真と絶妙な突っ込みで大量に紹介されている。
もらってうれしい土産じゃフツーじゃん。誰がこんなもん買うわけ?って常識を疑っちゃう奴がいいわけ。プロデュースのしがいがあるもんね。そいつらをボクは『いやげ物』って呼んでるわけさ。
(「いやげ物とは何だ」)
俺が爆笑したのは「甘えた坊主」と「二穴オヤジ」。そのあまりのバカバカしさに、最後には著者自身が、「もうキャプション、書きたくもないよ」とサジを投げる。
いやげ物を買う旅に出たくなる 1冊。
「すべては、ここに始まる」という、何ともはやな副題がある。栗本慎一郎が主宰する「自由大学」の講義録。したがって、栗本センセイが書いているのは「序」だけである。講義は以下の 3講。
特に、立川によるイェルムスレウという言語学者の話が面白かった。イェルムスレウは「ソシュールの唯一かつ真の後継者」であるらしいが、日本で紹介されることは少ないという。
「言語というシステムには最初から話者たる主観が織り込まれている」という説は目からウロコだった。例えば、「鳥が木の前にいる」という言説は、つまり、木と「話者」の間に鳥がいることに他ならない。暗黙の「話者」を考えないと、鳥の位置は決定できないわけである。「客観というものはなく、常に観察者の存在が系に影響する」という、物理学の客観問題にも似ている (だから、最近は「観察者」ではなく「関与者」というらしい)。
人間が書く文章に、知らず「自分」というものが現れてしまうのも頷ける。そういうシステムなんだから、と言い切ってしまう言語学の本当にスゴい点は、そのことを言語そのもので記述してしまうところにある。ある意味、日本的な不立文字の発想とは全く逆で、とても西欧らしい学問ではあるまいか。
杉谷浩子・訳、井沢元彦・監修。原題は "THE DARK SIDE OF CHRISTIAN HISTORY"。
何やらトンデモっぽいタイトルだが、至って真面目な本だった。キリスト教の負の面に焦点を当てた通史。キリスト教の勃興から、ローマ帝国における国教化、帝国崩壊後のいわゆる暗黒時代、異端審問、魔女裁判、覇権主義時代における植民地と奴隷制度、近代科学に対する圧力、現代におけるオカルト、などなど。
キリスト教のダーク・サイドを、その内部 (同時代の司教の言葉や文書) から記述しているために、迫力も説得力もある。悪意ではなく、善意の狂信であるからこそ恐ろしいわけだ。しかし、全ての信仰は狂信ではないのか。と思うのは俺が日本人だからか。
「読書は贅沢である」「読書は享楽である」という立場に立った読書論。したがって、本書で引用される書物もヘミングウェイ『移動祝祭日』、夏目漱石『明暗』、『古事記』など、いわゆる大文字の文学が多い。
「読書は贅沢である」という考えには自分も諸手を挙げて賛成する。例えば小説を読むときは、一気に読み切れるだけの連続した時間を確保してから読み始めることにしている。就職した今、そのような時間が取れなくて小説を読む量が激減し、結果としてこのような本ばかり読んでいるのは何とも皮肉だが。
副題に「どう味わうか」とある。『赤瀬川原平の名画読本』と同じコンセプトで編まれた名画案内の日本画編。本書がきっかけとなって、後に『日本美術応援団』という面白い本もできあがるのだが、とにかくその観賞の新鮮さに目が開かれる。
日本画の先入観にはかなりのものがある。日本画は古臭い、堅苦しい、偉そうだ、とっつきにくい、といろいろだ。
私たちが日本人だからだと思う。
外人だったら日本画を見て、その様式の意外さに、きゃっ、面白い、可愛い、欲しい、といってあっさり買ったりすることもできるだろう。
(「はじめに」)
確かにそうなのだ、と再確認させられる 1冊。本書で観賞されるのは以下の 14作。
副題に「観賞のポイントはどこか」とある。世間で「名画」といわれているものを、とにかくその評価を外して自分の目で見る、という、当たり前だがなかなか難しいこの姿勢を基準にした名画案内。
名画というのは、いつまで見ても飽きない絵のことなのだ。名画に飽きたという人は、たぶん名画という肩書に飽きているのではないか。つまり名画という肩書だけ見て、その絵は見ていなかったのではないだろうか。
逆にまた、名画だから見るという人もいる。それはいいのだけど、「名画だから」というだけで見ているとしたら、それはやはり名画という肩書だけ見て感心していたのだ。名画だということだけに満足して、その絵は見ていなかったのかもしれない。
(「はじめに」)
本書で紹介されている名画は 15作。
それぞれについて、赤瀬川原平が舐めるように絵を見ていくその過程と、率直な印象が記される。いわゆる解説めいた文章はほとんどない。また、ルノワール「ピアノによる少女たち」、アングル「泉」をボロクソにけなしているのも面白い。
各絵画はカラーで大きく印刷されており、文章を読みながら何度も眺め直した。著者の観賞を追体験することで、「なるほどなあ」と思うこともしばしば。
吉本隆明による読書読本。副題に「なにを、どう読むか」とある。
全体は 3部に分かれており、それぞれ「なにに向かって読むのか "読書原論"」「どう読んできたか "読書体験論"」「なにを読んだか、なにを読むか "読書対象論"」となっている。全体的に、吉本自身の読書体験をベースにしており、体験的読書論といえる。
エッセイの寄せ集めではあるが、幾つかのインタビューと、中沢新一との対談、荒俣宏との対談も収録されている。特に荒俣先生との対談テーマは「ラブ・ロマンス」であり、これはかなり面白かった。
副題に「論壇でぼくは何を語ったか」とある。
1990年代半ばから 2000年代半ばまでに、論壇で発表された多くの批評がまとめられている。テーマは一貫して、「サブカルチャーに墜ちつつある現代日本の、サブカルチャー側からの批評」、そして「護憲」である。
昨今、戦後民主主義の批判がかまびすしいが、現在の状態が悪いのは本当に戦後民主主義が悪かったからだろうか、という真摯な問い掛けがある。戦後民主主義が悪いと主張するその前提には、我々が戦後民主主義をきちんと生きてきたことが前提になる。「採用したけれどそれが悪かった」というのなら筋が通る、というわけだ。仮に我々が戦後民主主義を生きてこなかったのであれば、批判する以前に戦後民主主義を生きるという選択肢が存在するのではないか。むしろそういった主張は保守のそれとしてあるべきではないか、という大塚の論理はもっともにも思える。
以前から俺は大塚英志の主張には賛同しかねる部分が多いのだが、彼のこのような筋の通し方、理論の構築の仕方には素直に感銘を受けている。この方法論で書かれる物語論とか小説論は好きだし。批評となると、やたらに愚痴っぽかったり女々しかったりするのが残念に思えるが、そのあたりに彼のバランスを感じたりもするので、変なところで「面白いなあ」と思ったりもするんだよな。
丘沢静也・訳。副題に「グリム童話をひっかきまわす」とある。
近年ブームとなった、童話の原典探し、精神分析などの先駆け的な 1冊。著者のフェッチャーはドイツの政治学者であり、本書ではグリム童話を「自由社会の拡大」「資本家と労働者」といった切り口から論評する。とはいっても、真面目な本ではない。アカデミックな体を装ってはいるが、実際はパロディである。
俎上に乗せられるのは、「赤頭巾ちゃん」などのよく知られた 14編。まず最初に、実際に流布されているバージョンが紹介される。実は、これを読むだけでも結構懐かしくて楽しかったりする。その後で、著者による評論がひとくさり。最後に、その解説を元にした著者謹製のパロディが披露される。これが面白い。「七人の小人」は 7人のパルチザンの階級闘争であり、お妃の「鏡」は秘密警察のアレゴリーとなる。「シンデレラ」は抑圧された使用人によるストライキの物語となる。
面白いけれど、マジになって読んでしまう人もいそうだな。
タイトルは週刊誌的だが、内容は非常に硬派である。
死刑制度反対派には 2種類あるように俺には思える。「人間が人間に死刑を宣告することは道義的に許されない」とする「絶対的反対派」と、「冤罪の場合には取り返しがつかない」という「相対的反対派」である。相対的反対において問題になるのは、実は死刑問題ではなくて裁判・司法制度である。実際、世界的潮流における死刑反対の論調は「絶対反対」のようだ。
さて、著者はこの「絶対反対派」であることが「あとがき」において語られているが、その事実は「あとがき」を読むまでわからない。本文で、著者は自らの信条を一切表明せず、淡々と死刑の歴史、裁判制度の実体、死刑執行の実際、刑務所の体制を、豊富な資料と信頼できる統計に基づいて記述する。そこから、例えば「少年犯罪は戦後、減少の一途を辿っている」「高等裁判所によって死刑の判決率が異なる」といった、意外なデータが導かれる。著者の徹底した姿勢は、とにかく眼前に現在の日本の「死刑」をゴロリと投げ出すという目的を完璧に達している。
死刑反対はにも賛成派にも信頼され得る、一級の死刑研究書だと思う。
『ローマ人の物語』単行本第IX巻に相当する、文庫版第24〜26巻。『ローマ人の物語 危機と克服』の続刊である。
ローマ初の属州出身皇帝・トライアヌスを迎えたローマ帝国は、彼の在世中に最大版図を達成するに至る。トライアヌス帝時代における唯一ともいえる戦争はダキア戦役であり、これに勝利することによってローマはその土地を得た。これが最大版図ということは、よく考えれば後のローマには敗北しかないことになる。本書に描かれている時代はローマ人自らが「黄金の世紀」、後世の歴史家が「五賢帝時代」と呼ぶ輝かしい時代ではあったが、それだけに何だか物悲しくもある。もっとも、これは俺が個人的に感じただけのことで、そのような描写が本書にあるわけではない。むしろ、慎重に避けられていると思えるほどだ。俺の印象が的中しているかどうかは、続刊を読めばわかるのであろうか。
公共事業に熱心であったトライアヌス帝の死後、皇帝の座を継いだのがハドリアヌスである。彼は「疲れを知らない働き者」とまでいわれる熱心さで、広大なローマ帝国の全辺境を視察巡行した。在位期間の大半を費やしたその旅は単なる視察ではなく、皇帝自らが現地に赴いての、ローマ帝国の「再構築」であった。彼により、ローマの平和を守るシステムは徹底的に効率化され最適化された。その傍ら、ギリシア趣味のあったハドリアヌス帝は、パンテオンなどのギリシア風建築物を各地に残している。
ハドリアヌス帝の後を継いだのは、アントニヌス・ピウスであった。トライアヌス帝、ハドリアヌス帝によって盤石にされたパクス・ロマーナを維持したこの皇帝に目立った業績はなく、本書で割かれる紙面も少ない。我が国の歴史でも、その期間に比して、江戸時代 (特に中期) の叙述は少ない。それだけ平和であったのだろう。
全て雑誌などで行われた対談である。副題は「人間について」。このシリーズはとにかくタイトルがデカい。これまで紹介していなかった既刊の 6巻はそれぞれ、
となっている。デカい。本書における司馬遼太郎の対談相手は以下の通り。
戎崎俊一・訳。
エドウィン・ハッブルが、イェール大学で行った講義をまとめた本。ハッブルが、「遠くの銀河ほど大きな速度で遠ざかる」という「ハッブルの法則」を発見した経緯が詳しく、しかし比較的容易に記されている。この法則により、我々の宇宙が膨張しているであろうことは、ほぼ間違いないこととなった。もちろんノーベル賞を受賞したのだろうと俺は思っていたのだが、調べてみると、やや複雑な事情があるようだ。
ハッブルが活躍していた頃、天文学はまだ物理学とは認知されておらず (というよりも、ハッブルによって天文物理学が開拓されたといっても良い)、ノーベル賞の対象ではなかった。1953年、ノーベル賞委員会は天文学を物理学の範疇に含めるという決定を下したが、惜しくもハッブルはその直前に亡くなっていた。既に、ハッブルが受賞者に内定していたという。
さて、本書はそのような天文物理学の黎明期になされた巨大な成果の記録である。議論は、銀河が星の集団であるのかどうかというレベルからスタートする。また、多くの銀河は遠方にあり、その正確な距離を算定するための方法論の構築から試みなければならなかった。望遠鏡に映った像は写真乾板に焼き付けられていた。ようやくデジタル素子による撮影が始まろうかという頃である。
ハッブルは多数の銀河を撮影、分類し、その距離を求め、スペクトルを分析し、やがて銀河のスペクトルに赤方偏移を発見する。この現象を説明する理論はドップラー効果しかないと考えたハッブルは、「銀河が遠ざかっている」という仮説にたどり着く。そして求めた距離とのプロットから、「遠くの銀河ほど大きな速度で遠ざかる」という法則を打ち立てた。両者、つまり距離と速度の関係は驚くほど線的であったが、この結果は、多数の銀河の観測と、その距離の決定という地道な作業の賜物であった。
したがって、本書で多く述べられているのは、具体的な銀河の観測方法であったり、得られた値の妥当性についての検討であったりといった、比較的地味な話である。俺なんかはまさにその点に感動したわけである。スマートでエレガントな科学解説書も大切だが、このような本こそサイエンスの実際を雄弁に語っていると思う。
バンドブームの頃を題材にした、自伝的な青春小説である。登場する人物、バンド、エピソードは全て実際に存在したものだが、別にノンフィクションではなく、かといって暴露エッセイでもない。大槻ケンヂ自身が語るところによれば、「ブームに翻弄される青春物語」であるらしい。
事実、本書に登場する「翻弄された」バンドの多くを俺は知らない (バンドや人名、レーベルに対しては詳細な注釈が付されており、これを読むだけでも楽しい)。翻弄された人々の「その後」がチラッと書かれていたりもして、それがまた何ともいえなく悲しかったりもする。登場人物の多くが前向きに生きている (いた) だけに、余計に哀しさが浮かび上がってくるんだよなあ。
俺は純粋に小説として楽しんだが、あるいはバンドブームに詳しい人には、また別の感想があるかもしれない。
澁澤龍彦のエッセイ集。題材は色々でとりとめがないが、それでも「澁澤のエッセイ」とわかってしまうところが凄い。
2000年代前半に発表された、時事を題材としたエッセイ集。平野啓一郎の文章を読んだのはこれが初めて。特に「へえ」と思うような視点はなかった (なんかエラそうで申し訳ないが)。