- Book Review 2006/06

2006/06/27/Tue.

大塚英志による「スニーカー文庫のような小説」を書くためのハウツー本。ということに表向きはなっているが、いつものように半分は文芸評論でもある。大塚は、「スニーカー文庫のような小説」を「キャラクター小説」と定義し、(技術的な点を除いて) 以下の 3点を主張している。

要するに「文学は技術で作れる」ということである。これは大塚が何度も繰り返して述べていることであり、「芸術はテクニックで作り得る」という日記を書いたことがある俺も、かねがね賛同している考え方である。

本書で紹介されているテクニックは、手塚治虫の「漫画記号論」、民俗学における「世間話の文法」、ニール・D・ヒックス『ハリウッド脚本術』などであり、これといって目新しいものはない。ただ、これらの「技術」によって成される創作において、「オリジナリティ」の問題はまた別のところにある、と論じてある点がやや興味深い。機械的な方法論は独自性を縛るものではなく、額縁の中に何を盛るか、あるいは「壊れた額縁」を作るためにも基礎的な方法論は身に付けよ、ということである。もっとも、若い人は額縁を作ることにのみ異様な能力を発揮したりもして、それはそれで面白いのだが……、という議論は『定本 物語消費論』にリンクしている。

文庫書き下ろしの「補講」が 2つ、巻末に付されている。イラク戦争をハリウッドの脚本として再物語化する作業の話と、川端康成『伊豆の踊り子』と宮崎駿『千と千尋の神隠し』の比較の話で、これらは本編に比べてやや硬質で読み応えがある。

ところで、最近の俺は、「オリジナリティがそんなに大事かよ、ケッ」と思っているのだが、それはまた日記にでも書こう。

2006/06/18/Sun.

副題に「多々良先生行状記」とあるように、本書は妖怪研究家・多々良勝五郎センセイが旅先で出会う、不可思議な事件を綴った中編集である。収録作は、

の 4編。いずれも、伝説蒐集家・沼上蓮次の一人称で語られる。

概要

各話の構成は基本的に同じである。妖怪馬鹿の多々良センセイと伝説馬鹿の沼上は、戦後急速に失われつつある全国の伝承故事由来縁起風習怪異を採集するべく、貧乏旅行で各地を訪ねる。奇矯この上ない多々良センセイと、比較的常識のある沼上のしょうもない喧嘩を交えながら旅は進む。なぜか 2人はいつも道に迷い、ほうほうの体で宿と飯にありつくのだが、その地で、妖怪が絡んだ事件に巻き込まれてしまう。果たして真相は、というわけである。

事件の構成自体は、いわゆる京極堂シリーズや、そこから派生した榎木津の「百器徒然袋」と同じである。「百器〜」が榎木津を全面に押し出した、いわば彼の物語であったように、本書では多々良センセイのキチガイぶりが縦横に描かれている。多々良センセイは、京極作品の登場人物でも指折りの変人である。彼の言動を読むだけでも楽しい。

事件自体はあっさりしているが、妖怪関係の閑話は豊富である。エピソードによっては、他のシリーズのキャラクターも登場しており、ニヤリとさせられる。

2006/06/13/Tue.

「逆説の日本史」シリーズ第13巻。前巻『逆説の日本史 12近世暁光編 天下泰平と家康の謎』の続きで、初期 (初代家康から 5代綱吉の途中まで) の江戸幕府の政策、及び同時代の文化について述べられている。

江戸時代に官学となった朱子学、あるいは儒教についての井沢節はいつも通り。また、鎖国によって日本が外交下手となり、いかに諸外国との交渉で損をしてきたか、というのも既に他の著作で何度も書かれている。ただ、「鎖国」という言葉は 19世紀になってからのものであり、しかもそれは外国人の記録からの翻訳であった、という指摘には考えさせられた。一般にいうところの「鎖国令」というものを幕府が出したわけではないのである。

俺が興味深かったのは、島原の乱を「浪人による一揆」という側面から捉えた章、徳川綱吉による生類憐みの令が精神的な戦国時代を終わらせたという指摘、千利休によって完成された当時の茶道が掲げていた平等性、などなど。

2006/06/10/Sat.

『ダ・ヴィンチ・コード』ダン・ブラウンによる、象徴学者ロバート・ラングトンのシリーズ第1作。

今回は、ヴァチカン対イルミナティの争いに CERN (欧州原子核研究機構) の反物質が絡むという、内容だけを聞けば非常にトンデモな話である。宗教や結社、絵画、彫刻、建築、図章などに関する豊富な蘊蓄は本作でも健在。複雑に錯綜した事件が、極端に短い章立てでテンポ良く語られるのも、『ダ・ヴィンチ〜』に共通した構成である。読んでいてせわしないのだが、それは『ダ・ヴィンチ〜』で慣れた。

実際、物語時間が濃密なのだから仕方がない。早朝にアメリカで叩き起こされた我らがラングトン氏は、スイスの CERN で最初の殺人を目の当たりにし、数時間後に爆発するという反物質を追ってヴァチカンに飛ぶ。この地で彼は、更に数件の連続殺人を阻止するために奔走し、ヴァチカンの深奥でキリスト教の光と影に触れ、400年に及ぶイルミナティの強固な謎を解き、宗教と科学について真剣に考え、生命の危機を幾度となく潜り抜け、ヒロインとオメコまでしなければならない。まことに忙しい。というか無理だろ。

『ダ・ヴィンチ〜』の書評でも触れたが、悠久の時間と対峙する「歴史ミステリー」と、読者に緊張をもたらす「時限サスペンス」の手法がてんこ盛りにされており、この組み合わせは好悪の別れるところではないか。どうにも俺は消化不良で……。嫌いじゃないんだが。

2006/06/09/Fri.

俺は世間で叩かれているほどに清涼院流水を嫌いではないし、『コズミック』などの分厚いものより、むしろ本書のような薄い小説の中に好きなものがあったりするのだが、それにしてもこれはほとんど面白いと思える部分がなかった。

一応あらすじ。メフィスト翔という男が何の脈絡もなく「秘密室」という密室に捕らわれる。この密室から脱出するためには「密室の神様」を自称する老人が出題する「YES・NO クイズ」に正解しなければならない。果たして翔は、制限時間内に秘密室を抜け出すことができるのか。

メフィスト賞 10周年企画の一環として出版されたという本書だが、楽屋オチが多く、清涼院流水唯一の存在意義ともいえるバカバカしく破天荒なオチも物語もない。次作に期待しよう。

2006/06/08/Thu.

アマチュアでありながら優れた数論研究者であったフランス人、ピエール・ド・フェルマー (1601〜1665) は、愛読書『算術』(ディオファントス著) の余白に自らのアイデアや定理を書き込むのを常としていた。彼はいわゆるプロの数学者ではなかったから、これらの中には厳密な証明がないものも多い。しかしフェルマーの定理は、特に数論において重要なものが数多く含まれていたため、後世の数学者から数学的証明を与えられている。

だが、フェルマーの死後 300年以上が経過しても証明されていない定理が残っていた。これが「フェルマーの最終定理」(フェルマーの大定理)である。それは次のような命題である。

xn + yn = zn (n > 2)

この方程式は整数解を持たない。

『算術』の余白に書き込まれたこの命題には、まだ続きのメモがある。

私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない。

cuius rei demonstrationem mirabilem sane detexi. Hanc marginis exiguitas non caperet.

最終定理の魅力

フェルマーの最終定理がなぜこれほどまでに有名になったのか。理由は幾つかある。

  1. 問題自体は容易に把握できること。
  2. 反して、証明は極端に難しいこと。実際、3世紀に渡ってコーシー、オイラー、クンマーなどの歴史的数学者が挑戦しては匙を投げている。
  3. フェルマーの人を喰ったメモ、および 1.、2. の理由によってこの問題自体が物語を有していること。

この超難問を最新最高の数学的技術とアイデアでもって証明したのが、アンドリュー・ワイルズである。1995年 (最終的な論文が発表された年) のことであった。彼は証明不可能とさえ思われた定理を、孤独の内にほとんど独力で論証し、またその過程において様々な数学的発展を世界にもたらした。それは、フェルマーの最終定理という物語を締めくくるにふさわしいファンファーレでもある。本書が描いているのは、そのようなドラマなのだ。

概要

本書では、フェルマーの最終定理に関して、ワイルズのみならず、古今の数学者の軌跡、定理を理解する上で必要と思われる数学史、そこから派生する様々なエピソードを活写している。読者は、フェルマーの最終定理を中心に、数学の魅力を多面的に堪能できるだろう。ワイルズの証明、あるいは過去の数学者達の格闘を把握するために必要となる数学についても、必要充分に述べられている。重要な証明には充実した補遺が添えられているのも嬉しい。

数学者達も丁寧に描かれている。特に、定理の証明に重要な貢献を果たした「志村=谷山予想」のくだりは同じ日本人として誇らしく思うし、また、女性数学者に立ちふさがる社会的障壁の箇所なども大いに啓発される。比較的ページ数の多い本書であるが、数学のもたらす知的興奮と、数学者が織りなす人間ドラマが相まって、一気に読める。

興味のある方には、アミール・D・アクゼル『天才数学者たちが挑んだ最大の難関 フェルマーの最終定理が解けるまで』も推薦しておく。

2006/06/04/Sun.

毀誉褒貶の激しい麻耶雄嵩であるが、俺はデビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』の頃から変わらず最上級の評価を下している。意固地になって、評価するために評価しているわけではない。傑作と思うから傑作だといっているだけなのだが、「傑作であること」を理解するためには相当の探偵小説を読んでいる必要があると思われるので、わからない奴にはわからないだろうし、わかる人と話せば大変盛り上がる。

勘違いされやすい麻耶作品の中でも、本書は最も勘違いされやすいのではないか。「読んで面白かったか」と問われれば、これまでの麻耶作品よりは「つまらない」というのが素直な感想だ。もっとも、これは「小説としての」という枕詞をつけての印象なわけだが。しかし、麻耶雄嵩の常なるテーマが「探偵小説という枠組み」である以上、読者としての俺が興味を持っているのは更にメタなレベルの構造であり、その点においては本書も劣らぬ傑作である。

探偵小説においてトリックが用いられる最も単純な理由は「驚かすため」であるが、では誰を驚かすのかという、およそ今まで考えもしなかった視点を指摘するだけでも、本書の「メタ度」を保証できる。

小説が自己言及的になることによって新たに言及できるものがあるだろうか。本書はその鮮やかな 1例である。