- 『麻雀放浪記 (一) 青春編』阿佐田哲也

2006/01/19/Thu.『麻雀放浪記 (一) 青春編』阿佐田哲也

『阿佐田哲也麻雀小説自選集』に収録されていた本作を再読してしまったがため、結局は全巻を通じて読破してしまった。「戦後の大衆文学の、最大の収穫」(畑正憲「青春編」解説) という評価は大袈裟でも何でもないと思う。「青春編」「風雲編」「激闘編」「番外編」と、今日から 4作連続で御紹介する。

青春編

昭和20年 10月。終戦直後の東京は一面の焼け野原で、人々は脱力感と虚無感に捕らわれながら、一方では奇妙な高揚感と熱気を合わせ持っていた。両者が端的に噴出する場、それが博打。中学を卒業したばかりの「私」(坊や哲) が上野のチンチロ部落に姿を現したのは、そんな頃だった。

誰もが飢えており、喰われたところで助けはなく、むしろ喰われる奴が悪い。だから喰う方に回る。それがバイ人の唯一の倫理であった。勝てるだけ勝つ、負ければ逃げる。そのためには手段を選ばない。いかさまは当然。騙される方が馬鹿なのだ。逆に、敵の牙に斃れることもある。だからといって生きることをやめるわけにはいかない。彼らは闇成金や米軍兵をカモに、危ない橋を危ないとも思わず駆け抜けた。

しかしもちろん、彼らの法は彼らにしか通じない。いくら復興期のどさくさであったとはいえ、彼らはアウトサイダーに過ぎなかった。だが、その事実が彼らの矜持でもあった。チン六、上州虎、女衒の達、出目徳、そしてドサ健。いずれも一筋縄ではいかない男達が、必然とも思える奇妙な運命に魅かれて邂逅し、認め合い、あるいは結託し、そして互いをコロし合うために牌を握って戦う。

それを愚かな行為と指摘しつつも、彼らに抗えない魅力を感じる女達、八代のママやまゆみなども重厚に描かれている。そこにドラマが生まれ、彼らの戦い方にも微妙な影を落とす。この辺の機微は、読んでみないとわからないとしか言い様がない。

さて、「青春編」の白眉といえば、哲、ドサ健、達、出目徳による最終決戦だろう。もはや伝説的ともいえるその内容は書かないが、このラストを目にするだけでも本書を読む価値はある。本作は「麻雀小説」の枠に留まらない、一流の悪漢小説 (ピカレスク・ロマン) である。