- 『非国民』森巣博

2005/05/11/Wed.『非国民』森巣博

俺が初めて読んだ森巣博の小説は『神はダイスを遊ばない』であった。この本の帯には、「阿佐田哲也を超えた!」という惹句が踊っていたのだが、あまり期待はしなかった。俺は阿佐田哲也が好きで、その著作も概ね読破している。それ故に、そうそう彼を越える作家が現れるとは思わなかったのだ。

阿佐田哲也の小説も日本人離れしているが、登場人物の情念や、そこに描かれる風景は極めて日本的である。その点、森巣博の小説は無国籍的とでも言おうか、非常にドライだ。決して乾いているというわけではなく、登場人物は魅力的だし、現代的で、独特のユーモアがある。そして何よりも痛快なのだ。

強者と現実

本作『非国民』では、二つの側面からストーリーが綴られる。まず、警視庁生活安全課の芳賀刑事を通して語られる、日本の警察機構、司法制度の腐敗がある。警視庁生活安全課といえば、『新宿鮫』を思い浮かべる人も多いだろう。『新宿鮫』にも、現代日本の病巣に対する鋭い指摘と批判はあるが、鮫島のキャラクターと相まって、それも理想的な提言という趣がある。

『非国民』で描写される日本の現状は、『新宿鮫』のそれより救い難い。といっても、いたずらに暗く描写されているわけではない。悪徳刑事・芳賀も、とんでもない小悪党なのだが、どうにも憎めないところがある。合間合間に挟まれる「警察官心得」や「警視庁の歌」と現実世界のギャップが凄まじく、どうにも笑いが込み上げてくる。シュールというよりは、ほとんどギャグなのである。

だが、ひょっとしたら「笑える」ではなく、「笑うしかない」というのが我が日本の現実ではないのか、という暗澹たる予感も抱かされる。もちろん小説的な誇張もあるのだろうが、真面目に読むと結構こたえるものがある。

この芳賀刑事が、とあること(これも警察機構の矛盾に起因する)から、ドップリと博打にはまって進退が窮まってしまう。そして、本作のもう片方の主人公、『ハーフウェイ・ハウス・希望』の住人との間で問題が発生する。

弱者と希望

『ハーフウェイ・ハウス・希望』とは、薬物依存からの更生を目指すための施設である。設立者は、元エリート証券マンにしてコカイン中毒者だったという経歴を持つ賭博の才人、鯨。元ヤクザで覚醒剤中毒のスワード。元暴走族でシンナー中毒の少女、バイク。同じく暴走族あがりで、少年院を出てきたばかりのシンナー小僧、亮太。そして、住人の更生を見守るオーストラリアからの留学生、メグ。

スワード、バイク、亮太は、「<すべてが許される明日>を夢見て、ひたすら<今日>を耐える」という、鯨独特の哲学に従って、薬物依存からの脱却を闘う。しかし彼らの心が通い始め、皆に「希望」が見えてきたとき、『ハーフウェイ・ハウス・希望』の運営資金が底を尽き始める。そこで彼らは、博打で一稼ぎしようと画策する。

『ハーフウェイ・ハウス・希望』の住人達には、現代日本の様々な問題が壁として立ちふさがる。彼らを取り巻く過酷な事態に、胸が痛む場面もある。読者は、彼らの魂が救われることを願わずにはいられない。様々な要素がギッシリと詰め込まれた『非国民』は、悪漢小説であり、青春小説であり、社会小説であり、ユーモア小説であり、そしてもちろんギャンブル小説でもある。つまり、上質のエンターテイメントなのだ。