- ムルソーの説明

2014/10/11/Sat.ムルソーの説明

能動的に生きるとは、自らの行為の説明を試みることであると書いた。

説明とは何か。科学において、自らの行為の説明(論文の記載)は誰もが諒解できるものでなければならない。しかしこれは極端な例であり、我々は我々が生きる上で多かれ少なかれ独自の説明を試みる。

イチローは彼独自の打撃理論を構築していると考えられるが、その説明が万人に適用できるかといえばはなはだ疑問である。彼の説明は彼の肉体と直結しており、松井秀喜に有効であるとは思えない。もっというと、私がイチローの理論を学んだところでほとんど何の意味もないだろう。だが、彼の説明が普遍性を持たないからといって無用とはいえない。イチローの説明は彼が安打を量産するため——、ひいては彼が彼として生きるために必要なのであり、その価値は疑うべくもない。

説明の独自性とその価値を考えると、カミュの『異邦人』が想起される。主人公ムルソーは裁判において、自らが犯した殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と「説明」する。

『異邦人』が不条理小説とされるのは、ムルソーの説明が読者に対して不条理(独自性の極限)だからである。我々は彼の価値観を受容できないため、彼の説明が持つ彼にとっての価値も理解できない。これは、ムルソーが能動的に生きることの否定へと繋がる。その意味で彼が処刑されるのは必然といえよう。