年齢を経ることに伴う意識の変化に以前から興味がある。
私は同じ話をするのが嫌いであり、ましてや同じ相手に同じ話をするなど時間の浪費、完全なる罪悪だと考えていた。現在もそう思っている。にも関わらず、しばしば同じ話をするようになってしまっている。しかも、自分でそのことを自覚しているのである。「前と同じ話をしているな」と思いながら同じ話をしている。気付いているだけマシともいえるが、気付いているのに自制できないので
容易に予期できることだが、早晩、同じ話をしていることすらわからなくなると思われる。ひょっとしたら、既にわからなくなっているのかもしれない。「自分がわからなくなっていること」を認識するには他者からの指摘が要る。しかし年齢を重ねると指弾してくれる人が少なくなる。もちろん私より年上の人間はまだまだ大勢おり、彼らは私を遠慮なく批判することができる。ただ、年長の彼らは確実に私よりもボケているはずで、私が同じ話をしたところで気付けないかもしれない。私が気付かずに同じ話をし、相手も気付かずに同じ話を聞いているとき、一回目の話に費やした時間はどこに消えたことになるのだろう。「そのようなことがあった」ことを誰も知らないのである。
これが老いなのかと思う。いささか恐ろしい。
もう一つよく考えるのがハゲについてである。ハゲをみっともない髪形で隠そうとする日本人は多い(米国ではそのような髪形は見受けられない)。彼らがどう考えているのか、私は知らない。バレていないと信じているのか、バレているのは承知でその髪形のほうがまだマシだと判断しているのか。いずれにせよ若者から見て「みっともない」には違いない。そして想像するのは——、現在みっともない髪形をしている人たちも若い時分はハゲていなかったはずであり、そして若かりし頃の彼らも、みっともない髪形を見て「みっともない」と思っていたであろうということである。ここで疑問なのは、なぜ若いときにみっともないと思っていたことを、年を重ねてから平気でするのかということである。
私が「前と同じ話をしているな」と自覚しながら同じ話をしていることを
最近では、相手の年齢に抱く感想も非常に混乱している。例えば最も性欲の強かった十代の頃には三十歳前後の女性など
さらに研究者という職業が年齢に対する感覚の混乱に拍車を掛ける。研究者は芸人と同じで四十歳までは「若手」である。京都のボスや米国の BOSS はいずれも五十歳前後であるが、これも研究室主宰者としてはまだまだ若いほうだといえる。その反面、研究の世界の日進月歩ぶりは凄まじいため、ボスや BOSS に対して「なに古いこと言ってやがるんだ」と思うことも多々ある。ではボスや BOSS が実年齢相応のジジイかというと、発想の柔軟性や新規の事物に対する取り組みなど、恐らく一般社会の同年代に比べたら随分と「若い」と観察される。また、彼らをジジイと書き殴る「若手」の私は三十三歳であり、これは大卒社員としては十年選手であるから、実のところ何ら若いことはない。無茶苦茶である。
色々と書いたが、これらの事例に関して思うのは「私」の連続性に対する懐疑である。十年前と現在では、私の思考や行動は確実に変化している。それは連続的な変化のはずだから「私」もまた連続しているのだと強弁することはできる。しかし私が気付くのは変化した後のことであり、変化している最中にその事実を把握することはできない。認識の上では人格が断絶しているのである。「昔の私はこうだった」ということを私が知っているという、ただそれだけのことがかろうじて私の連続性を支えている。
私が昔の私を忘れたとき、私はいったいどうなるのであろう。数十年後にこの文章が役に立つかもしれないと期待して書き留めているのだが、書いたこと自体を忘却する可能性は極めて高い。