- 筋肉と神経

2013/12/05/Thu.筋肉と神経

筋肉が動物を動物たらしめる。私が筋肉に魅せられる所以ゆえんである。

筋肉は、細胞の梁たる繊維を収縮弛緩させることでその形状を変え、機械的な運動を実現する。各細胞が生む力は微弱だが、これらを統一的に制御することで器官としての筋肉は相加的に大きな力を発揮する。筋収縮は環境の変化に対応して起きなければならない。必然的に制御系は筋肉の外部に発達する。また、その反応は迅速かつ反復可能でなければならない。これが、筋収縮が神経系によって全か無かの法則all-or-none lawに支配されている理由である。例えば受容体によるシグナル伝達ではこれらの目的を達成できない。

筋肉目線でこのように考えると、筋肉と神経の系統発生は同時期、もしくは神経のほうが早くなければならぬ。果たして、筋肉は腔腸動物以上に見られるが、神経もまさに腔腸動物から現れる。

一方、マウスなどの個体発生を見ると筋肉と神経の関係は遠いようにも思われる。筋肉は中胚葉から生じ、神経は外胚葉から出る。最終的に両者は接続されるが、神経はあらゆる組織に伸びていくのでこれは驚くに値しない。ところで、神経の多くは感覚神経——信号が末梢から中枢へ向かう求心性神経——である。しかし筋肉を支配する運動神経は、中枢から末梢へと信号が伝達される遠心性を持たねばならない。ここは考えどころである。

発生において筋肉より先に生じる神経系が「伸びていく」ことを考えたとき、まず神経が遠心性を持つのは自然なことのように思われる。と同時に、そもそも遠心性シグナルは環境の変化に対応するために必要とされるのだから、環境を把握するための求心性神経が先に発達しなければ機能し得ないとも考えられる。筋肉、遠心性神経、求心性神経が進化的にどのような順番で誕生したのかは興味深い疑問である。

遠心・求心は中枢があって初めて成立するが、中枢神経の定義は下等な動物ほど曖昧になる。中枢を持たない散在神経系のヒドラは面白い例で、その神経細胞は軸索を持たず、一つの神経細胞が感覚器と筋肉の両方に接続する。ここで、この神経細胞が回路を保つ形で分裂したと想像しよう。片方は自動的に感覚神経となり、もう片方は運動神経となる。こうなると中枢という言葉が怪しくなる。それは、感覚器から筋肉に至る神経回路の「途中」が肥大したというだけではないのか。「中枢」は様々な印象を伴う強い単語である。自由な思考には危険かもしれない。

ちなみに、ヒドラは二胚葉の動物で中胚葉がない。その筋肉は外胚葉と内胚葉からそれぞれ現れる。また、ヒドラは高い再生能力を有することでも知られる。当然のごとく神経系も再生する。——これは驚くべきことか否か。

医学畑で長らく働いていると、「筋肉は中胚葉由来である」「神経系は再生しない」という言説に違和感を覚えなくなる。医学系の文章では「少なくとも哺乳類において」という枕詞が暗黙裡に省略されるが、そのことを忘れてしまうのである。医師や薬剤師など、ヒドラのことなど全く知らない人も多い。そのような環境において、時に酵母や線虫やショウジョウバエの論文を繙くのは、私にとってささやかながら重要な仕事である。

視点というのは本当に大事で、ヒドラ目線からは「驚くべきことに、ある種の動物では内胚葉・外胚葉とは異なる第三の胚葉が現れる。個体発生を考察する上で大変興味深いことである」という記述が可能である。私はもう、論文や申請書でやたら滅多に驚いたり興味を持ったりするのを止めようと思っている。自分の滑稽な姿を世界に公開してどうするのか。

ところで、私は学生の頃から神経系の勉強が苦手である。以下に積年の不満をブチく。

伝統的な神経の分類は生理学的な機能を根拠にしている。抹消神経は随意性の体性神経と不随意性の自律神経に分けられるという。しかし随意性、すなわち「自分の意思」は神経系によって成立しているのだから実のところ意味不明である。例えば、体性神経の指令による反射運動は自分の意思とは無関係に起きる。また、自律神経は植物性神経とも称されるが、植物は神経系を持たない。「筋肉を支配する植物性神経」に至っては理解不能である。この自律神経は交感神経と副交感神経に分けられる。交感神経は興奮性で、それに対して副交感神経は拮抗的に働くという。心臓では、収縮を亢進するのが交感神経で、抑制するのが副交感神経である。これは良い。ところが、瞳孔を収縮させる神経は交感神経ではなく副交感神経と呼ばれる。逆なのである。瞳孔は筋肉の収縮によって小さくなり、弛緩によって大きくなる。だから私の理解では、瞳孔の収縮=筋肉の収縮=興奮性=交感神経支配となるのだが、この回答では試験に落ちる。なぜなら、瞳孔が収縮するのは睡眠などの休息時であり、これは興奮状態ではないからその機能を実現するのは副交感神経というべきだからである。馬鹿じゃねえの。それに、交感神経と逆の働きをする神経の名前が「副」交感神経であることにも耐え難い。ついでに書くが、副交感神経である迷走神経は決して迷走などしていない。もう無茶苦茶である。腹が立つのである。

少々話が逸れたが——、筋肉目線で神経を考えたときに重要となる「運動神経と感覚神経」「求心性と遠心性」という区分が、医学的な名称と徹底的に相性が悪いことがわかる。ここで大切なのは、この場合なら、副交感神経なる神経が存在するわけではないことを看破することである。そして、思索に支障がない概念であるなら排除を厭ってはならない。