- Diary 2013/12

2013/12/29/Sun.

思想は形而上的なものとされるが、その思想を抱くのは私というヒト、否応もなく形而下的な生物である。私に言わせれば、そもそも形而下的であるというのは生物的であるということと同値である。したがって思想で着目するべきは、その形而上的な内容と形而下的な事由との接続である。なぜ、生物である我々は一見して非生物的である思想(捨身飼虎など)さえ持ち得るのか。

「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉は様々な批判を呼ぶが、それは「健全」の定義が曖昧だからである。この言説が指摘しているのは、思想は肉体に依存するという事実に他ならない。ダンゴムシが思想を持たないのは、彼らにそれを許す身体能力がないという、ただそれだけの理由に拠る。

菜食思想というものがある。肉食は健康に悪いから、あるいは肉食は動物の命を奪うから肉は食べない、植物だけを摂るべきという思想である。この思想を信奉すること自体は簡単である。しかし「私は菜食思想を支持します」と言って肉を食べるのは許されない。菜食思想を抱いた者は菜食を実行する菜食主義者であらねばならない。言行一致が求められる。これは思想と肉体の合一でもある。マッチョイズムの信奉者となった者はまず筋力トレーニングをして己の肉体を改造する。痩せこけた者が「男はやはり肉体である」と主張しても構わないのだが、なぜかそうはならない。三島由紀夫ほどの知性をもってしてもそうであった。

思想が肉体に隷属するのか、思想が肉体を導くのかは重大な問題ではない。重要なのは両者が不可分だということである。私の外部に何か素晴らしい思想が存在するわけではない。私は私が理解できる思想しか理解しないし、私の肉体が許す思想しか受容しない。思想や宗教の弾圧が苛烈な拷問や処刑を伴うという歴史は、思想の肉体依存性をよく物語っている。

2013/12/26/Thu.

遺伝子改変マウスを交配させているが、私が求める遺伝子型の個体が一向に現れない。メンデルの法則と統計学と私の検定結果を信ずるなら、その遺伝子型の表現型は致死だと考えられる。それが事実であることを早く確認せねばならぬが——、とまれ、私が提案した研究課題が的を射たものであった可能性が高まってきた。

少しく高揚しているが、まだ不安でもある。

実験科学は仮説先行である。仮説がなければ検証すべきことがわからず、実験もできない。ある問題に対して、不充分な知見から論理的な推論を得るには、どこかに仮定を置かねばならぬ。このとき研究者は任意の仮定をすることができる。これは創造的な独断専行、すなわち主観的な行為である。研究者の存在証明といって良い。実験なら機械でもできるからである。

自然科学は真理の探求を究極の目標としているが、この果実に手が届くことは決してない。研究者の脳裏に浮かんだ曖昧な作業仮説は、様々な検証を経て極めて妥当な仮説へと昇華する(ことがある)。よく検討された仮説は「真実」と見做されて扱われるが(パラダイム)、これは絶対不変の真理ではない。研究者は自分の仕事が永遠に仮説のままであることを受け容れねばならぬ。仮説の設定は常に独善的だが、しかし実験の目的は「自分の考えの正しさを証明すること」ではないからである。

とはいえ、自分の仮説が棄却されるのは哀しいことには違いない。私の「不安」の理由もそれである。

最近、日本人研究者の捏造問題が業界内で広く語られている。なぜ捏造をするのかという疑問には色々の社会的な、すなわち一般的に理解しやすい回答が用意されている。だが私は、この問題には研究者という人種の生理が深く関わっていると信じている。つまり、頭の良い彼にとって、頭の良い自分が考えた仮説は必ず正しいのであり、仮説に反するデータが出たならそれは実験が誤っているはずだから、結果の「修正」はむしろ当然であるというラスコーリニコフ的な思想である。

研究に真摯な学生やポスドクがしばしば「強い」ボスに潰されるという光景は、アカハラやパワハラという社会的な力関係の言説で片付けられるほど単純ではない。常に不安を抱える思想と、過剰に信念的な思想との対決の結果という一面がある。ラスコーリニコフ的な信条ははなはだ幼稚だがすこぶる強靭である。不安を手放さない者はいきおい敗れざるを得ない。

God child でなくともこの腐敗した世界でクソッタレどもから自己の思想を守り切るのは難しい。その思索が高尚高潔繊細であるほどそうである。社会には強靭な思想がその強靭さゆえに蔓延はびこっており、気持ちの弱い思想家はそれに耐えられず自ら命を絶つことすらある。が、それではあまりにも純真過ぎる。思想がどれだけ高度か、強固か、無垢かなどは、それぞれ重複すれど本質的に異なる性質である。例えば「愛は地球を救う」という考えは強靭で純粋だが程度は低い。「我々は宇宙の塵、無価値な存在」ともなれば、いささか高尚になり堅固さもあるが、皮肉が強く絶大な人気は見込めない。思想の中身と思想のタイプは別物なのである。我が思想のタイプを見極められればその寿命も伸びるだろう。

私は私がより良く生きるためにこそ思想を持つ。他の思想と対決して損害を被ったり敗れたり、ましてや殉じたりするなどは本末転倒である。——というのが私の考えだがあまり生き易いものではない。

2013/12/18/Wed.

年齢を経ることに伴う意識の変化に以前から興味がある。

私は同じ話をするのが嫌いであり、ましてや同じ相手に同じ話をするなど時間の浪費、完全なる罪悪だと考えていた。現在もそう思っている。にも関わらず、しばしば同じ話をするようになってしまっている。しかも、自分でそのことを自覚しているのである。「前と同じ話をしているな」と思いながら同じ話をしている。気付いているだけマシともいえるが、気付いているのに自制できないので性質たちが悪いともいえる。なぜこうなってしまったのか。

容易に予期できることだが、早晩、同じ話をしていることすらわからなくなると思われる。ひょっとしたら、既にわからなくなっているのかもしれない。「自分がわからなくなっていること」を認識するには他者からの指摘が要る。しかし年齢を重ねると指弾してくれる人が少なくなる。もちろん私より年上の人間はまだまだ大勢おり、彼らは私を遠慮なく批判することができる。ただ、年長の彼らは確実に私よりもボケているはずで、私が同じ話をしたところで気付けないかもしれない。私が気付かずに同じ話をし、相手も気付かずに同じ話を聞いているとき、一回目の話に費やした時間はどこに消えたことになるのだろう。「そのようなことがあった」ことを誰も知らないのである。

これが老いなのかと思う。いささか恐ろしい。

もう一つよく考えるのがハゲについてである。ハゲをみっともない髪形で隠そうとする日本人は多い(米国ではそのような髪形は見受けられない)。彼らがどう考えているのか、私は知らない。バレていないと信じているのか、バレているのは承知でその髪形のほうがまだマシだと判断しているのか。いずれにせよ若者から見て「みっともない」には違いない。そして想像するのは——、現在みっともない髪形をしている人たちも若い時分はハゲていなかったはずであり、そして若かりし頃の彼らも、みっともない髪形を見て「みっともない」と思っていたであろうということである。ここで疑問なのは、なぜ若いときにみっともないと思っていたことを、年を重ねてから平気でするのかということである。

私が「前と同じ話をしているな」と自覚しながら同じ話をしていることをかんがみれば、恐らく彼らも「みっともない髪形をしているな」と認識しながらその髪形をしているのだと想像できる。もう少し妄想するなら、そのうちに「みっともない」と思わないようになるのだろうという予想もできる。

最近では、相手の年齢に抱く感想も非常に混乱している。例えば最も性欲の強かった十代の頃には三十歳前後の女性などまごうことなきババアであったが、自分が三十三歳になった今では「二十九歳? 若いねえ」と完全に変節してしまっている。それは相対的な変化であろうという議論もできるが、一方で、スポーツ選手などに対する年齢感覚は十代のままなのである。三十三歳といえばプロスポーツ選手としてはかなりの高齢である。冷静に考えれば選手の大半は明らかに自分より年下なのだが、いまだに私にとってプロスポーツ選手は「年上」の存在なのである。今期二十四勝〇敗の成績を挙げた楽天ゴールデンイーグルスの田中将大投手が八つも年下であることがにわかには信じられない。なぜなのか。

さらに研究者という職業が年齢に対する感覚の混乱に拍車を掛ける。研究者は芸人と同じで四十歳までは「若手」である。京都のボスや米国の BOSS はいずれも五十歳前後であるが、これも研究室主宰者としてはまだまだ若いほうだといえる。その反面、研究の世界の日進月歩ぶりは凄まじいため、ボスや BOSS に対して「なに古いこと言ってやがるんだ」と思うことも多々ある。ではボスや BOSS が実年齢相応のジジイかというと、発想の柔軟性や新規の事物に対する取り組みなど、恐らく一般社会の同年代に比べたら随分と「若い」と観察される。また、彼らをジジイと書き殴る「若手」の私は三十三歳であり、これは大卒社員としては十年選手であるから、実のところ何ら若いことはない。無茶苦茶である。

色々と書いたが、これらの事例に関して思うのは「私」の連続性に対する懐疑である。十年前と現在では、私の思考や行動は確実に変化している。それは連続的な変化のはずだから「私」もまた連続しているのだと強弁することはできる。しかし私が気付くのは変化した後のことであり、変化している最中にその事実を把握することはできない。認識の上では人格が断絶しているのである。「昔の私はこうだった」ということを私が知っているという、ただそれだけのことがかろうじて私の連続性を支えている。

私が昔の私を忘れたとき、私はいったいどうなるのであろう。数十年後にこの文章が役に立つかもしれないと期待して書き留めているのだが、書いたこと自体を忘却する可能性は極めて高い。

2013/12/15/Sun.

経済学によれば富の本源は労働であるという。そして私が思うに、労働力の原資は時間である。教育や機械化によって単位時間あたりの労働量は増大したが、労働時間は大きく減ってはいない。過労死の裁判で争われるのも、もっぱら労働時間についてである。

時間は蓄積できない。今日は暇だから一日を十二時間にして、明日は忙しいから一日を三十六時間にしよう。そんなことはできない。また、私の五分を他者に譲渡したり、他者の五分と交換することもできない。しかるに富は蓄積や交換が可能である。労働とは、蓄積不可な時間というものを、蓄積可能な富に変換する行為と言えなくもない。これが、我々が決して労働時間を大幅に削減しない一因ではないか。

何のために我々は富を蓄積するのか。富を持つ者は生存に有利であるという生物学的な議論を展開することはできる。しかし百人分の食料を購入したところで食べ切れるわけがないのである。富の蓄積・交換の可能性はそれよりも遙かに大きい。

例えば、一時間働いて給料を貰う。そして翌日、その賃金でタクシーに乗り、移動時間を一時間短縮する。ここで行われているのは、前日と翌日の一時間の疑似的な交換である。富を媒介することで、時間は蓄積・交換可能になる。労働時間=交換可能な時間と考えれば、我々が労働時間を極端に減らそうとしない理由がわかる。

この観点から、低賃金労働者、高給取り、生まれながらの大富豪が持つ時間概念を考察すると面白いかもしれない。また、共産主義社会における時間についても調べてみるべきだろう。

2013/12/13/Fri.

ウォシャウスキーWachowski姉弟の最新作、"Jupiter Ascending" のトレイラーを見た感想は「古いな」の一言に尽きる。この作品に限った話じゃない。確かに映像はリッチになった。だけど僕たちの未来観は何十年も前に作られた未来観から一歩も抜け出せていない。ブルーのライトに彩られたくらい街並みは幻想的で神秘的な雰囲気を醸し出し、機械的で電脳的な——しかしそれらがいったい何なのかは皆目わからない——数々のアイテムはいつもブンブンッと唸っている。どうして未来はこんなにも薄暗いんだろう。エネルギーが底を突いたのだろうか。電力問題すら解決できていないなんて、あまりにも未来らしくない。それに未来の製品はどれもお粗末に見える。僕が使っている MacBook Air や、目の前を駆け抜けていくプリウスのほうがよほど洗練されエレガントに動いている。Google Glass なんて最高にクールじゃないか。

現実とかけ離れていればいるほどそれは未来的だった、そんな時代があった。けれどこれほどまでに急速に、そして高度に科学技術が発達してくると、現実からの乖離は滑稽で奇妙な独りよがりに見えてくる。「これは未来ですよ」という記号にはもう飽き飽きだ。僕たちが見たいと願っているのは新しい未来なんだ。

2013/12/07/Sat.

以前に「時間を止め、その世界で自分だけが動ける」という超能力について考察した。この能力を「自分を構成する以外の全ての粒子の運動を停止させる能力」と仮定する。すると光子フォトンが網膜に進入しなくなるので、超能力者は時を止めた瞬間に暗闇に包まれるはずである——。そういう議論であった。

ここでまず指摘せねばならぬのは、超能力者は時を止めても目が見えなくなるわけではない(そのような描写はない)ことである。これは上述した私の結論と矛盾する。

自然光・環境光は太陽由来である。したがって「自分を構成する以外の全ての粒子の運動を停止させる能力」の範囲を地球に留めるなら、超能力者は視力を保つことができる。問題は非太陽由来の光子である。地球由来の光子は運動を停止するので、時を止めると見えなくなる。炎や電灯、テレビや携帯電話などのディスプレイ、あらゆる発光体は時を止めた瞬間に一斉に消える(ように見える)。

同様に電子エレクトロンも止まる。時を止めた超能力者が電子取引でインチキをしようとキーボードを叩いてもその信号がコンピュータに伝達されることはない(先の議論によれば、それ以前にモニターが真っ暗に見えているはずである)。

音も聴こえなくなる。これは映画やアニメでも割合よく再現されている。時を止めた途端に無音となるのは常套的な演出である。しかしより重要なのは、時を止めている間は一切の音がしないことである。これは宇宙戦争モノと共通する話題といえる。

粒子の運動が止まると熱が生じなくなる。時を止めた超能力者の皮膚は熱を感知できず「寒さ」を覚える。また、呼吸ができるのかという疑問もある。DIO が「10秒」しか時を止められないのは、このようなヒトの肉体の限界に拠るのかもしれない。実際、DIO が吸血鬼として覚醒すると制限時間が伸びる。

よくわからないのが重力子グラヴィトンである。仮に重力子が相互作用し、自分を構成する以外の全ての地球の粒子の運動が停止するなら、時を止めた超能力者は、直近の大質量天体である太陽に引っ張られるのではないか。

そもそも地球は三〇キロメートル毎秒で公転しており、地球の粒子の運動を止めると超能力者は重力以前に慣性で吹っ飛ばされるかもしれない。また、太陽系は二四〇キロメートル毎秒で移動している。地球の運動だけを止めたらこの蒼い星は宇宙の孤児と化す。「超能力の範囲を地球に限る」という妥協案はやはり具合が悪い。

粒子の停止によって「時を止める能力」を説明することは無理なのだろうか。停止論と並ぶ有力な仮説は加速論、すなわち「実は時は止まっておらず、自分だけが高速運動をするので周囲が止まったように見えている」という理屈である。これは特殊相対性理論そのものでもある。私が加速論にくみしないのは、「自分だけが速く動く能力」は「粒子の運動を停止させる能力」に比べて超能力性が弱く思えるからである。

(DIO に話を限るなら、しかし加速論は依然有望である。DIO と似たスタンドを持つ承太郎は最終的に時を止められるようになるが、その彼の能力は「素早く正確に動く」である)

2013/12/06/Fri.

米国ミネソタでは今週から雪が積もり始め、最高気温が零下十七度という日もありました。瀬戸内の温暖な気候の下で生まれ育った私が想像したこともない風景に目を奪われる毎日を送っています。

雪が降るすなわち寒いという以外の認識を持っていなかった私は、五感を初めて刺激する出来事の一つ一つに心を動かされます。肺腑を充たす、決して冷たいだけではない爽やかで清涼な空気。うっすらと舞い降りた粉雪が風に吹かれて舞い上がり、陽の光を反射して煌めく様。歩道の雪が融け、再び凍り、最後は人々の歩みに砕かれて玉砂利のように敷き詰められること。木々から雪が落ちる際の重量感を伴った音。寒いはずなのに、不思議と暖かく感じられる瞬間。街灯に照らされた雪の街が穏やかな明るさに包まれる美しさ。来月やって来る妻もこの景色を気に入ってくれるかしら、そんなことを思うと気分も少しく躍ります。

振り返れば、渡米直後の四月にも雪が降っていましたが、これらの光景に想いを馳せることはありませんでした。やはり余裕がなかったのでしょう。ということは、私もちょっとは成長したのでしょうか。こんなことも嬉しく思われます。

などという清少納言ばりの繊細な感性が俺にもあれば楽しく暮らせるのだろうが、現実には鼻汁の氷柱つららでそれどころではない。しかも懇意にしているスキンヘッドのコンビニ店員が言うには、一月二月が最も寒いらしい。まだまだこんなものではないという。エラい土地に来てしまった。

2013/12/05/Thu.

筋肉が動物を動物たらしめる。私が筋肉に魅せられる所以ゆえんである。

筋肉は、細胞の梁たる繊維を収縮弛緩させることでその形状を変え、機械的な運動を実現する。各細胞が生む力は微弱だが、これらを統一的に制御することで器官としての筋肉は相加的に大きな力を発揮する。筋収縮は環境の変化に対応して起きなければならない。必然的に制御系は筋肉の外部に発達する。また、その反応は迅速かつ反復可能でなければならない。これが、筋収縮が神経系によって全か無かの法則all-or-none lawに支配されている理由である。例えば受容体によるシグナル伝達ではこれらの目的を達成できない。

筋肉目線でこのように考えると、筋肉と神経の系統発生は同時期、もしくは神経のほうが早くなければならぬ。果たして、筋肉は腔腸動物以上に見られるが、神経もまさに腔腸動物から現れる。

一方、マウスなどの個体発生を見ると筋肉と神経の関係は遠いようにも思われる。筋肉は中胚葉から生じ、神経は外胚葉から出る。最終的に両者は接続されるが、神経はあらゆる組織に伸びていくのでこれは驚くに値しない。ところで、神経の多くは感覚神経——信号が末梢から中枢へ向かう求心性神経——である。しかし筋肉を支配する運動神経は、中枢から末梢へと信号が伝達される遠心性を持たねばならない。ここは考えどころである。

発生において筋肉より先に生じる神経系が「伸びていく」ことを考えたとき、まず神経が遠心性を持つのは自然なことのように思われる。と同時に、そもそも遠心性シグナルは環境の変化に対応するために必要とされるのだから、環境を把握するための求心性神経が先に発達しなければ機能し得ないとも考えられる。筋肉、遠心性神経、求心性神経が進化的にどのような順番で誕生したのかは興味深い疑問である。

遠心・求心は中枢があって初めて成立するが、中枢神経の定義は下等な動物ほど曖昧になる。中枢を持たない散在神経系のヒドラは面白い例で、その神経細胞は軸索を持たず、一つの神経細胞が感覚器と筋肉の両方に接続する。ここで、この神経細胞が回路を保つ形で分裂したと想像しよう。片方は自動的に感覚神経となり、もう片方は運動神経となる。こうなると中枢という言葉が怪しくなる。それは、感覚器から筋肉に至る神経回路の「途中」が肥大したというだけではないのか。「中枢」は様々な印象を伴う強い単語である。自由な思考には危険かもしれない。

ちなみに、ヒドラは二胚葉の動物で中胚葉がない。その筋肉は外胚葉と内胚葉からそれぞれ現れる。また、ヒドラは高い再生能力を有することでも知られる。当然のごとく神経系も再生する。——これは驚くべきことか否か。

医学畑で長らく働いていると、「筋肉は中胚葉由来である」「神経系は再生しない」という言説に違和感を覚えなくなる。医学系の文章では「少なくとも哺乳類において」という枕詞が暗黙裡に省略されるが、そのことを忘れてしまうのである。医師や薬剤師など、ヒドラのことなど全く知らない人も多い。そのような環境において、時に酵母や線虫やショウジョウバエの論文を繙くのは、私にとってささやかながら重要な仕事である。

視点というのは本当に大事で、ヒドラ目線からは「驚くべきことに、ある種の動物では内胚葉・外胚葉とは異なる第三の胚葉が現れる。個体発生を考察する上で大変興味深いことである」という記述が可能である。私はもう、論文や申請書でやたら滅多に驚いたり興味を持ったりするのを止めようと思っている。自分の滑稽な姿を世界に公開してどうするのか。

ところで、私は学生の頃から神経系の勉強が苦手である。以下に積年の不満をブチく。

伝統的な神経の分類は生理学的な機能を根拠にしている。抹消神経は随意性の体性神経と不随意性の自律神経に分けられるという。しかし随意性、すなわち「自分の意思」は神経系によって成立しているのだから実のところ意味不明である。例えば、体性神経の指令による反射運動は自分の意思とは無関係に起きる。また、自律神経は植物性神経とも称されるが、植物は神経系を持たない。「筋肉を支配する植物性神経」に至っては理解不能である。この自律神経は交感神経と副交感神経に分けられる。交感神経は興奮性で、それに対して副交感神経は拮抗的に働くという。心臓では、収縮を亢進するのが交感神経で、抑制するのが副交感神経である。これは良い。ところが、瞳孔を収縮させる神経は交感神経ではなく副交感神経と呼ばれる。逆なのである。瞳孔は筋肉の収縮によって小さくなり、弛緩によって大きくなる。だから私の理解では、瞳孔の収縮=筋肉の収縮=興奮性=交感神経支配となるのだが、この回答では試験に落ちる。なぜなら、瞳孔が収縮するのは睡眠などの休息時であり、これは興奮状態ではないからその機能を実現するのは副交感神経というべきだからである。馬鹿じゃねえの。それに、交感神経と逆の働きをする神経の名前が「副」交感神経であることにも耐え難い。ついでに書くが、副交感神経である迷走神経は決して迷走などしていない。もう無茶苦茶である。腹が立つのである。

少々話が逸れたが——、筋肉目線で神経を考えたときに重要となる「運動神経と感覚神経」「求心性と遠心性」という区分が、医学的な名称と徹底的に相性が悪いことがわかる。ここで大切なのは、この場合なら、副交感神経なる神経が存在するわけではないことを看破することである。そして、思索に支障がない概念であるなら排除を厭ってはならない。

2013/12/03/Tue.

滞米中の私の最大の目標は日本の研究機関で PI の地位を得ることである。近年、文部科学省はテニュアトラック制度を推進しており、この欲求が比較的公正な公募によって達成できる環境が整いつつある(と希望的に観測される)。これに限らず、募集はいつも多数ある。

公募に限らず研究費申請や論文投稿でも同じことだが、これらは競争であって当て物ではない。多少の不確定要素があるとはいえ、巨視的には採択されるべき者が採択されるべくして採択される。巷間にいう競争倍率などは考慮に値しない。応募者の大半は有象無象の輩であり、最終選考の倍率は必ず二倍から数倍に収斂する。事前審査・書類選考には合格して当たり前、これが求められる最低限の水準といえる。でなければ採択経験者の勝率が説明できぬ。もっとも、最終的には実力勝負である。もちろん運も絡む。しかし天命を待つにはまず人事を尽くさねばならぬ。

ここで特に重要と思うのは、業績を積み上げ実力を蓄えるだけではなく、それらを正確に伝達する能力を涵養し資料を作成することが不可欠だという事実である。口演は練習するたびに上手くなるし、文章は書き直すたびに読み良くなる。これは、実験は繰り返すほど精度が増すのと本質的に同じことであり、今後の経歴を考えれば実験に等しい労力を割く価値がある。

手前の論文や研究なぞ誰も興味を持ってはいない、まずはこの現実を認識すべきである。貴方は隣の研究室の活動に関心があるだろうか、彼らの話を聞くほど時間に余裕があるだろうか。そんなものはどこにもない。そのような中で我々は、「研究がしたいので給料と研究費と人手と場所と時間と支援をくれ」と自信満々の体で要求しなければならぬ。無茶苦茶である。しかしこの無理を通さねばならない。

ところで、競争社会は有能な人間に有利であり無能な連中に不利である。したがって自分が優秀であることを求められる世界に身を置くなら、無条件で競争を歓迎しなければならない。これは非常に辛いことである。また、このような路を進むには前提として常に公正な競争の実施が求められるが、日本の社会にそれを期待することはできない。競争に曝されず分不相応な利益を甘受している蛆虫のような連中の存在が我々の苦悩をさらに根深くする。雑念を振り払い清々しい気分で己のするべき事柄に集中するのは生半のことではない。ここまで私が述べたことは全て綺麗事である。

実は——、このような世相や個人の心理までをも含めて競争というゲームが成り立っている。この理解を得るには少々の観察が要る。これは達観ではない。私の理解では、達観とは解釈の抛棄である。研究者であるなら、観察した事実をどうにか解釈せねばならぬ。

2013/12/02/Mon.

骨格筋は再生するが心筋は再生しない。心疾患が重篤である理由はほぼこの事実に起因する。心機能が低下したとき、外部から心筋細胞を導入すればそれが回復するのではないかというのは素直な発想である。この観点から過去十年以上に渡り、無限に増殖する ES 細胞を心筋細胞に分化させる研究が行われてきた。移植に伴う免疫の問題は iPS 細胞の樹立によって解決される見通しが立った。さらには iPS 細胞を経ずに体細胞を心筋細胞へと直接形質転換direct-reprogramする方法も明らかになった。

しかし私はこの治療戦略に長らく疑問を抱いている。上でいうところの心筋細胞cardiomyocyteとは最終分化した細胞であり、これらを梗塞などで壊死した領域に移植したところで大して生着もせず、心機能が改善されるほどに組織が修復されるかは疑わしい。そもそも梗塞巣は血流が遮断されて生じるのであり、血液が循環していない環境に細胞を移植しようというのは筋が悪い。

私が欲しいと切実に願うのは強固robust幹細胞性stemnessを有した心血管幹細胞cardiovascular stem cellsである。それは心臓への移植後に分裂し増殖し分化し周囲の状態に応じた構造を形成し損傷した組織を置換し機能する可能性potencyを持つ。それは分化の段階で一過性transientに出現する不安定な前駆細胞precursorとは異なる。私がいう「強固な幹細胞性」とは、具体的には in vitro ないし ex vivo で幹細胞性を保持したまま維持・増殖ができ、培養条件の変更によって自発的な分化を誘導できることである。

骨格筋幹細胞(衛星細胞satellite cell)由来の筋芽細胞myoblastは「強固な幹細胞性」を持つ細胞の例のように私には思われる。少なくとも心臓にこのような細胞は存在しない(報告されていない)。筋芽細胞は高血清培地中では分化せずに増殖するが、低血清培地に変更すると筋細胞myocyteへと分化を始め、最終的には筋管myotubeを形成するに至る。筋芽細胞を骨格筋に移植すると、それらは自発的に分化し既存の筋管と融合する。また、それらのごく一部は自己複製self-renewalから未分化細胞reserve cellを経て幹細胞へと戻るとされる。この移植筋芽細胞由来幹細胞は、骨格筋が損傷したときに再び活性化され再生に貢献する。

さて、強固な幹細胞性を持つ心血管幹細胞をどのように作成するかであるが、大別して二通りの方針があると考える。一つは生体内からそのような性質を持つ細胞を発見することである。この課題は世界中で挑戦されており、私は魅力を感じない。もう一つは望む細胞を自ら樹立する方法である。その基礎となる細胞として筋芽細胞は有望であるように思われる。骨格筋と心筋は近しい。例えば既報の因子を導入したとき、線維芽細胞より筋芽細胞のほうが効率良く心筋に形質転換される可能性はある。この程度の研究は既に誰かが行っていると思われる。

心血管幹細胞を考えるときに加えて重要になるのは多分化能multipotencyである。心臓を構成する細胞のうち心筋が占める割合は半分に満たない。心筋だけではなく血管や線維芽細胞などの複数種の細胞が機能的な構造を形成することによって心臓は心臓となる。それが組織の定義でもある。単一細胞種がいくら集まったところでそれは細胞塊に過ぎない。損傷した組織を幹細胞によって再構築するというのであれば、その幹細胞は必要な場所に移動migrateし複数種の細胞に分化し得る多分化能を有しなければならない。あるいは、複数種の幹細胞を混合して移植することも考えられるが、この戦術を検証した実験は意外と少ない。

ところで、心筋への分化を促進することは、心筋以外の細胞への分化を抑制することに他ならない。したがって、転写因子のカクテルによる特定の細胞種への分化誘導は、幹細胞の多分化能を生かすという戦略と相性が悪いようにも思える。この問題を解決するアイデアは幾つかある。例えば、それぞれ異なる環境で活性化される複数のカクテルを導入する、などである。しかし系が人工的かつ複雑になり過ぎて私はやりたくない。