- 知らないふり

2013/10/17/Thu.知らないふり

知ったかぶりは知らない人間にしかできず、知らないふりは知っている人間にしかできない。

なので——という接続詞が適切かはわからぬが、思うところもあり、できるだけ知らないふりをしている。無知を装うと相手の口数が多くなるので会話が楽になる。また、こちらには余裕があるので話者をじっくりと観察することもできる。

知ったかぶりと負けず嫌いは密接な関係がある。知ったかぶりとは「知っていたい」という欲望であり「知りたい」という欲求とは異なる。負けず嫌いとは「負けたくない」という意地のことであり「勝とう」という意欲とは別物である。とにかく、自分がソレを知っているか否かと、自分がソレを知っているか否かを他人が知っているか否かは全く違う位相の問題のはずである。

ところで、「私はソレを知らない」ことを私が諒解できるのはなぜだろう。この命題が成立するには、知ることが可能である、あるいはいずれ知られるべきであるソレが存在する(であろう)ことを私が知っている必要がある。したがって、私はソレを知らないという認識は、私はソレの予見性を知っていると言い換えることができる。私はソレを知らないことにより、ぼんやりとソレを知ることができる。何も知らないのであれば、ソレについて語ることは不可能である。

ここまで考えると、知りたいという願望の最上位は「私は何を知らないのかを知りたい」であることがわかる。これを裏返せば無知の知となる。「何も知らないのであれば、ソレについて語ることは不可能である」ことを私は知っている。私は、私が全く知らないソレが存在し得ることを知っているのである。この構造は、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの語りとも似ている。類似の構図が、想定の範囲外、想像の埒外、常識外れなどといったより日常的な枠組みにも見て取ることができる。

このような認識が可能であるという事実は、我々がさらに大きなシステムによって物事を把握していることを示唆する。その最大のものは何であろう。それは我々自身の肉体に他ならない、というのが私の考えである。「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」といったような体系が霊感のごとく私の外部に存在しているとは思えない。

いや、私はウィトゲンシュタインの本を読むまで、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という思想を知らなかったのではなかったか。それは書籍という物体として私とは別個に存在していたのではなかったのか。ここはよく考えるべき点である。

一つ指摘できるのは、私がウィトゲンシュタインの著作を読んで「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ことを理解できたのは、私にその準備ができていたからだということである。『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』という文字が発する光学的な刺激を乳児や米国人やカタツムリに与えても、彼らは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ことを把握できない。『語り得ぬものについては沈黙しなければならない』という信号から「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という認識を得るには、そのような変換を可能にする回路が既に私の中に存在していなければならない。つまり、私はソレを知り得る状態にあったということである。

これは、「私は、私がソレを知り得ることを知らなかった」という例である。しかし実際に知ることによって、私は、私が知り得る可能性に開かれていることについても知るに至った。これを気付きと換言しても良い。気付きは外界からのシグナルによって惹起される。気付こうと思って気付くことはできない。できたとしたら、それは気付いたのではなく知っていたのである。

では、どうすれば気付く回数を増やしたり、確率を高めたりできるのだろうか。やはり本を読んだり他人の話を聞くのが良いように思われる。それ以外となると、全く未知の環境に自分を置くくらいしかないであろう。