- 旧国名の話(一)

2013/10/15/Tue.旧国名の話(一)

帝国海軍連合艦隊の旗艦は長らく「長門」であったが、長州といえば山縣有朋をはじめとして陸軍の印象が強い。海軍は薩閥である。それでは「薩摩」という軍艦はないのかと調べてみたら、果たして初の国産戦艦の名がそれであった。続く薩摩型二番艦は「安芸」というが、これは本艦が呉海軍工廠で造られたからであろう。

先日、尖閣諸島の警備を強化するため、那覇の海上保安本部に巡視船「おきなわ」が追加配備された。実は「おきなわ」の旧称は「ちくぜん」という。筑前といえば羽柴筑前守秀吉である。もしこれが「中国には秀吉を向けるぞ」というメッセージなのであればなかなか面白い。しかし本当のところは知らない。

秀吉の同僚である明智光秀は日向守であった。この頃になると官職の名乗りも無茶苦茶である。秀吉も光秀も九州とは何のゆかりもない。一説には、織田信長が有力家臣を九州の国司に推挙したのは「次は九州だぞ」という意思表示だともされるが、やや疑わしい。秀吉と光秀が任官したのは天正三年であり、長篠の戦いの直後である。秀吉は中国の毛利と対峙しておらず、光秀はまだ丹波に赴任もしていない。この段階で信長が九州侵攻を考えていたというのは、彼に対するありがちな過大評価の類であろう。

秀吉の筑前守や光秀の日向守はそれでもまだ正式任官だったが、僭称も多かった。天皇から征夷大将軍に任命されたはずの徳川家康が東照大権現となって神君とあがめられ、その一方で皇室の権威が地に墮ちた江戸期には、官職の名乗りは勝手次第となってしまう。例外として有名なのは、将軍家のお膝元である武蔵守は称さないというルールだろう。内裏のある山城守も同様の理由で禁止されるが、それは幕末になってからのことである。言い換えれば、江戸末期には天皇の存在がこんなところでも注目を浴び始めたともいえる。もっとも、公家官位と武家官位を切り離している時点で不敬も何もあったものではない。前提が狂っているのである。「私は、本来なら帝から任命されるべき官職を勝手に名乗りますが、帝をおもんぱかって山城守だけは名乗りません」。こんな馬鹿な話はない。しかしいかにも日本の歴史らしい。