「可及的速やかに」という文字を見るたびに「火急的〜」と書き換えたくなる。可及的速やかに=できるだけ速く=火急に=火急的速やかに。この言葉を初めて目にしたのは田中芳樹『銀河英雄伝説』においてであった。ラインハルト・フォン・ローエングラムがよく口にしていた。
世辞や愛想が苦手である。理由は単純で、厳密にいうとこれらは全て嘘だからである。それが真実なら、これらの行為は賞賛や肯定と呼ばれるはずである。賞賛や肯定は苦手ではない。
世辞や愛想は適度に使ったほうが良いという社会的要請は、嘘を
倫理を貫徹して世辞や愛想を絶対に言わない、とすれば矛盾はなくなる。ではそれで、私は、そして他人は幸福になるのだろうか。何のために倫理を遵守するのかという本質的な問いを忘れてはいけない。
……そんな思念に意識が取られるので、私の対応はいつも中途半端になる。「いいね、これ」。ヘラヘラと無理に笑いながら愛想を言った刹那、厳しい倫理が壁を破って登場する。「でもここはクソやね」。これなら黙っていたほうが良かったのではと後悔することも多い。
倫理とは極めて人間的なものである。ところで、私は人間であると同時にヒトという動物でもある。実のところ、私はできるだけ動物らしく生きたいとも思っている。幸福追求という問題を考えるときに、「動物たちは幸福なのだろうか」という疑問は非常に重要である。
倫理や幸福に関する言及には撞着したものが多い。「幸福になるべきだ」という言説に圧迫されるのは不幸である。「自由であるべきだ」という思想に束縛されるのは不自由である。「個性的であるべきだ」という意見は没個性的で、「多角的に見るべきだ」という観点は一面的である。私の「動物らしく生きたい」という欲求も人間的なものといえる。
矛盾していると何か問題なのか、と開き直りに近い質問を立てることもできる。しかし矛盾を認めた瞬間に「考える」という行為が無効になる。したがってこの命題はナンセンスである。思考を抛棄するという究極的な態度に打って出るなら、それは動物的というよりは動物そのものである。それで良いじゃないか——という境地にはまだ至っていない。