「車輪の再発明はするな」という言葉を見るたびに思い出すのが新大陸の文明である。南北アメリカ大陸には車輪がなかった。新大陸が旧大陸の人間に蹂躙された理由は複合的だが(ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』)、仮に新大陸でも早くから車輪が発明されていれば、以後の歴史も異なる展開を見せたかもしれない。
先日の日記で、物語の開始時点を前へ前へと早めていけばそれは「始まらない物語」になるのではないかという着想を述べた。
一人称小説を考えよう。物語を以前へと遡り続ければ、いずれ「私」が存在しない時空間へと辿り着く。この始まらない物語を読む者は(始まらない物語をどうやって読み始めるのかという疑問はさておき)、この小説が三人称で記述されていると思うだろう。ところがある時点で唐突に「私」が現れる。うわ。こいつが主人公か。まだ物語は始まっていなかったのだ!
ところで、どの時点から主人公に「私」を名乗らせるかは難しい問題である。まさか「今日、私は生まれた」と書くわけにはいかない。こんな文章が許されるのは、産湯が入った
この問題を考えていくと、一人称小説の主人公は、その小説を記述できるだけの自我と知識を持っているはずだということが改めて明らかになる。これも車輪の再発明といえる。
随分と古い話になるが、9.11 テロの後に、米国では
(断っておけば、私は十代の頃から
『イマジン』の放送を求める人々の心理はよくわかる。ただ指摘しておきたいのは、「皆でこの曲を歌って気持ちを高めよう」という発想は、全体主義的で宗教的だということである。「ともに歌おう。これは偉大な曲だ。ここに表れている思想に共感せよ。さあ、君もこちらに」。これでは軍歌も『イマジン』も変わらない。
言うまでもなく、放送禁止は愚かな選択である。と同時に、効力のある措置とも思えない。放送禁止は営利企業である放送局の判断であり、国家が『イマジン』を抹殺したわけではないからである。我々には変わらず『イマジン』を聴く自由があるし、『イマジン』を放送しない企業に尻を向ける自由もある。だから『イマジン』の放送禁止は言論弾圧の問題でもない。皆で『イマジン』を聴けるかどうかが焦点であり、その種の集団行為に興味のない人間からすれば、どちらも何を本気になっているのか、ということになる。
個人的には、戦争が始まったら『イマジン』ではなく『