- 愚行権

2013/05/30/Thu.愚行権

資本主義から愚行権に至る回りくどい話を書く。

「金銭のことは考えるだけ無駄である、という気持ちが私には強い」と以前に書いた。実際の姿勢はもう少し積極的な無策なのだが、心掛けている行動もある。それを説明する。再び断っておくと、私は経済に暗い。以下は独自の理解と実践である。

資本主義でも共産主義でも、人々は経済的に二分される。価格を決める者とそうでない者である。共産主義と違い、資本主義には価格を決める自由がある。価格を決める者が資本家で、そうでない者が労働者——ではない。価格を決める自由は誰もが行使することができる。

ある品物が甲店では一万円、乙店では一万五千円で販売されているとする(その他の条件は同じとする)。それぞれの価格を決めたのはそれぞれの店である。消費者にはどの店で購入するかを選択する自由がある、とされる。しかしそれは本当の自由ではない。なぜなら誰もが安価な甲店で購入するからである。商売上がったりの乙店も、その品物を一万円(以下)で販売せざるを得なくなる。乙店の自由も大きく制限される。

このような世界において、価格設定の自由を行使するとはどういうことだろうか。それは、私は私の価値観に従うということである。すなわち、その品物に一万五千円の価値があると信ずるなら、甲店が一万円で売っていようと乙店で一万五千円を支払うということに他ならない。

もっとも、現実の生活でそこまで徹底することはできない。私の具体的な実践は次の通りである。私の欲しいモノが私の納得する値段で販売されていたらその場で躊躇せずに買う、他店との比較はしない。価格が高い・安いという感想は、あくまで私の価値観とのズレとして現れる。これは、私が自由に暮らす上で重要な観点である。

したがって、私が嫌いな質問は「それどこで買ったの?」であり、最も苛立つ台詞は「別の店のほうが安いよ」である。大きなお世話としか言い様がない。損得勘定への腹立ちについては以前にも書いた。

私がいう「価格設定の自由の行使」は愚行権と言い換えることもできる。上記のように、私はしばしば(世間から見て)奇妙な理論で動いているので、自分の愚行権は大いに主張するし、他者のそれも尊重している。

ここで言葉の問題に踏み込む。いったい、それが愚行であると判断している主体は何者なのか。私にとって私の行為は正常である。私から見れば、私の行為を愚行と指摘することこそ愚行である。となると、愚行権を尊重する私は他者の愚行を認めなければならないから、「それどこで買ったの?」という愚問にも笑顔で答えなければならない……。

かくして撞着した結論に至る。まさに愚考であろう。