- 終わらない物語と、いつかどこかで見た光景

2013/05/29/Wed.終わらない物語と、いつかどこかで見た光景

終わらない物語never ending storyについては何度か考察した。二〇〇六年の日記では、アルゴリズムによる物語の自動生成にも触れた。「事実上終わらない物語」の実現は難しくない。その物語が、死ぬまでに読み切れないほどの分量であれば良い。そのような膨大な量のテキストを生成するには、機械的な自動化が有効だろう。そういう議論であった。

物語の自動生成は、言説の自動化と深く関係する。

言説の自動化についても幾度となく書いた。最も簡単な例は「記憶が走馬灯のように〜」などの言い回しである。私は走馬灯を見たことがない。あなたはあるだろうか。見たことがないモノを比喩には使えない、理解もできない——はずである。にも関わらず、我々は走馬灯のような記憶の流れについて諒解することができる。なぜならそのテキストは、あまりにも使い回された結果、それが一つの回路のごとく機能するようになったからである。これが自動化である。自動化された言説は、書く者を記述した気分にさせ、読む者を思考させた心持ちにさせるが、もはや何事をも表現してはいない。生じるのは時間の空費と勘違いのみである。

物語にも似たことがいえる。どんな本を開いても、いつかどこかで見た人物、情景、構成ばかりが目に入る。探偵は事件を解決し、愛する者とは結ばれ、世界は救われる。もちろん、探偵が敗北し、愛する者とは別れ、世界が滅びる物語も存在する。しかしそれはアンチ物語という物語に過ぎず、いずれにせよ「いつかどこかで見た光景」であることに変わりはない。

終わらない物語もまた、「いつかどこかで見た光景」に埋め尽くされるのだろうか。終わらない物語が無理数のような存在であれば、我々は終わらない物語のいつかどこかで「まだ見たことのない光景」に出逢うだろう。もっとも、終わらない物語は本質的に循環小数と変わらないという可能性もある。この場合、我々が既視感を拭うことはできない。

一つ希望があるとすれば、我々がいつかどこかで見た光景は、全て終わる物語で経験したものだという点にある。もし、終わらないがゆえに成立し得る光景があるならば——、我々は終わらない物語においてのみ「まだ見たことのない光景」を目にすることができる。そして実は、その可能性に開かれていることこそが、終わらない物語の魅力なのではないか。

話を戻す。

物語から「いつかどこかで見た光景」を排除することはできるだろうか。極端なことを言い出せば、「彼にも母がいるのか。母がいる者の物語はもう読み飽きた」ということになりかねない。「この戦争が終わったら結婚するんだ」が月並みで、「彼には母がいる」が月並みではない理由とは何だろうか。一つの回答は、「この戦争が終わったら結婚するんだ」は物語であり、「彼には母がいる」は物語ではないというものである。では、ある状況が物語となる条件とは何であろうか。

また、文章から自動化した表現を根絶することは可能だろうか。文法が慣用の産物であることを考慮すると、あらゆる文章は多かれ少なかれ自動化されているともいえる。さらにいうなら、私は日本語でしか考えることができない。私の思考は日本語の様式で自動化されている。「記憶が走馬灯のように〜」だけが特別に自動化されているというのなら、その根拠は何であろうか。

(これらは「標準的な文章は存在するか」という問題とも深く関係する)

以下は宿題である。

言葉遊びの類だが——、「始まらない物語」はあり得るだろうか。それはどのようなものだろうか。物語の結末に比べて始まりが論じられることは少ない。特に多いのが結末の必然性についてであるが、では始まりに必然性はあるのだろうか。始まりを時間的に遅らせるのは難しいかもしれない。結末に必要な情報が欠ける恐れがある。だが、物語の開始時間を早めることは可能である。物語はいずれ元の始まりの時点を迎え、同じ結末に辿り着くはずだからである。したがって……、ある固定された結末が存在し、そこに至る物語の開始点を時間的に前へ前へと戻していけば、始まらない物語を達成できるかもしれない。

始まらない物語についてはまた論考したい。