- 米国と書く

2013/03/06/Wed.米国と書く

丸谷才一『文章読本』を読了。こんな本を読むと、自分の文章が気になって仕方がない。

それと関連した記憶を一つ書き留めておく。

米国に留学することを決めてまず思ったのは、日記で<米国>について書く機会が増えるだろうということである。問題は、これから留学する国、すなわち米国、アメリカ合衆国、USA などの文字列で表現されるこの国を、どう記すかである。

これらの理由で、私は<米国>を「米国」と書くことにした。「米国」は字数も音も短く、私が留学する国と一対一の関係にある。米国人、米国政府、日米などの熟語に派生させることができ、一貫した多様な表記が可能である。欠点は略語であることだが、これは無視しても良いだろう。

「米国」は文化的・歴史的な意味も含む。「日本人にとっての米国」という意味である。このニュアンスは「アメリカ合衆国」にはない。「米国」に相当する唯一の外国語は中国の「美国」だろうが、幸いにも字が違う。

「米国」は、日本人である私が実際に見聞する米国を記すのに都合の良い言葉なのである。

反省

留学決定以降、米国の表記には気を遣っていたが、日記を検索すると二件の「アメリカ」が出てきた。

ステロイドや成長ホルモンを打つと筋骨隆々になれる。だからアメリカ人は打つ。あまりにも単純だ。

「『アメリカは今日もステロイドを打つ USAスポーツ狂想曲』町山智浩」

書名の『アメリカは〜』に引きずられたのだと思われる。もう一つは、ごく最近の日記である。

アメリカ人が盛んに世界史を書くのは、イギリス人がローマ史を、日本人が中国史を書くのと似た理由からではないか。

「ノアは方舟に魚を積んだか」

ここでも「アメリカ人」と書いてしまっている。「アメリカ人」という言葉は、建国以前の先住民を含み得る。歴史の話題を記す際には特に注意を要するのに、思慮不足であった。

余談

網野善彦が言うには、「縄文時代の日本」という表現はおかしい、まだ日本という国号が存在していないからである。この理屈を敷衍すると、独立宣言(一七七六年)からペリー来航(一八四九年)まで、「米国」はほぼ存在しなかったことになる。

同様に、私の用語法を厳守すれば、「ロシア人にとっての米国」という記述も成立しなくなる。

しかしそれではあまりにも融通が効かない。単純に、"The United Sates of America" の翻訳である「アメリカ合衆国」の短縮語として「米国」を使う、という規則で今は充分だろう。それに、特別の効果を求める場合は例外もあり得る。