- 食雑感

2013/03/05/Tue.食雑感

食品売場で思い浮かんだり、食事中に考えたりしたことを雑多に書く。

魚介は魚貝と書くのがわかり良いと長らく思っていた。辞書によれば、介という字は甲を持つ生物を指すらしい。蛸や海月くらげは介ではないようである。海産物という括りもあるが、それでは鮎の居場所がない。鰻などの回遊魚も怪しくなる。となれば水産物というしかない。鯨肉は魚ではなく肉売場に置くべきだが、水産物にするのなら理解もできる。

白身の赤鯛は、その色彩から己があずかり知らぬところで瑞魚とされ、大いに食される羽目に陥った。茹でると赤くなる海老や蟹も同じ理由で乱獲された。肝心なのは、彼らは見栄えが良いばかりでなく実に美味いということである。家畜のように品種改良されたわけでもないのにと感心する。まるで人間のために生まれてきたかのようである。

黒毛和牛というが、どうせ肉しか食べないのだから毛色は関係なかろうといつも思う。

鶏肉の卵とじ、鮭とイクラの取合わせを親子と名付けた人間は、いささか性格が悪い。

自然薯というように、自然をシゼンとむのは不自然である。しかし自分の職業がジネン科学者となるのは少し心地が悪い。

自然薯も昆布も植物だが全く別の売場にある。同じ昆布でも、乾燥させたものは乾物、それに塩をまぶしたものは菓子の売場に並んでいる。

植物食品の分類は恣意的で混乱が著しい。主に食する部位によって野菜・果物・穀物と呼び分けられるが、とにかく例外が多い。瓜の一味は野菜から果物にまで蔓延はびこっている。一方で、葉・茎・根が食用となる全ての植物、さらに菌類である茸までもが野菜という枠にひしめいている。

豆は華僑のごとく店舗のあらゆる場所に現れる。野菜売場はもちろんのこと、豆腐・納豆・油揚は豆製品という独自の王国を築き、乾燥豆は乾物や菓子、そのまた一部は酒肴として売られる。野菜や果物の絞り汁とは異なり、豆のそれはなぜか乳と見做みなされ、動物食品と同じ棚に陳列される。

豆腐に醤油をかけるのは、飯を米酢でえたり、牛肉を牛乳で煮込むようなものか。ところで、胡麻豆腐や卵豆腐みたく、醤油と山葵わさびが練込んである豆腐があったらさぞ横着ができるのにと思う。

種子の一族はそれぞれ隔離されている、稲は米、黍は野菜、麦は粉・麺・パン、木実は菓子であり、もはや植物の印象すら乏しい。

関西人は白飯と一緒に、お好み焼き・焼きそば・饂飩うどんなどを摂る。お好み焼きと焼きそばを一緒にしたモダン焼き、焼きそばに飯を加えたそば飯というものもある。これを知った地方の人は「炭水化物ばかりじゃないか」と嗤う。しかし彼らも、拉麺ラーメンと焼き飯の定食、蕎麦寿司、焼きそばパンなどは食べる。

自分でギターを弾きドラムを叩くことで楽曲に対する理解が深まった。絵を描くことで美術の観賞が豊かになった。ならば自分で料理をすれば舌も肥えるだろうと思うのだが、やる気はない。

食通や料理人に男が多いのは、数学者に男が多いのに似て積年の謎である。