- ゲーム・プレイの独創性

2012/11/14/Wed.ゲーム・プレイの独創性

『とびだせ どうぶつの森』をプレイしている。どうぶつの森シリーズは初プレイだが、膨大な収集要素があり、コンプリート欲を刺激される。

ゲームにおけるコンプリートが一種のメタ・ゲームであることは以前に書いた。

ゲームによっては「収集されること」それ自体が存在意義であるかのようなアイテム、すなわち、コンプリート難度を高めるためだけに作成されたアイテムすら存在する。そのようなアイテムを入手しても使い途はない。むしろ実用性がない方が好ましかったりする。なぜなら、必要のないものまでをも集め切ったという充実感が得られるからである。

このようなアイテムを収集するのは時間の無駄である、とされる。しかしここが面白いのであるが——、ゲーマーがコンプリートを目指す際に行っているのは、最短時間で作業を繰り返すための「最適化」に他ならない。何と彼らは、時間を無駄にしまいとしているのである!

最適解を得るには、不断の試行錯誤、詳細なシステム解析、頻繁な情報収集・交換が必要である。最適な行動を起こすには、理解、練習、準備、集中、持続、忍耐も求められる。オンラインゲームであれば、加えてコミュニケーション能力、役割に徹する協調性、場の空気を読む力がなければならず、自らが団体を組織するのであれば、さらにリーダーシップ、カリスマ性、調整能力などをも身に付けねばならない。ゲーム・プレイの最適化は決して機械的な行為ではない。論理的な思考と独創的な着想、精密な肉体動作、冷静な情熱の発揚を伴う、とても人間的な営為なのである。

明確な目的のために払われるこのような一連の努力が、単なる時間の無駄だとは私には思えない。無駄になるか否かは、ゲームでの経験を実生活に適応し、自らの成長を現実に発揮できるかどうかにかかっている。どうもゲーマーはこの点において少し下手なのではないか……、という臨床的な印象は確かにある。けれども、彼らが費やしたエネルギーと時間そのものが非難の対象となるいわれはない。

以前にも書いたが、ゲームのプレイと楽器の演奏は極めて類似している。譜面に合わせてスティックを振るという点では、『太鼓の達人』と『ドラムマニア』と電子ドラムとアコースティック・ドラムの間に本質的な差はない。『太鼓の達人』でフルコンボを達成することと、ある楽曲を完コピすることに違いはあるだろうか。

ゲーム・プレイの創造性はもっと一般に語られても良い。今回はアイテムのコンプリートについて書いたが、タイムアタックや縛りプレイについても全く同じことが言える。