- Diary 2012/11

2012/11/30/Fri.

留学に必要なビザの取得に関して、調べたことや実際に行ったことを記録していく。既存の情報は古かったり、リンクが切れていたりするので、ブックマーク代わりに情報をまとめておく必要を感じたからである。

まず、言葉の意味を明らかにしておく。ここでいう「留学」は業界用語である。理系研究者の世界では、一般的に、博士号取得後にポスドクとして海外の研究機関で働くことを指す。学生として教育機関に編入学するわけではない。

私の留学先は米国で、申請するのは J-1 ビザ(交流訪問者ビザ)である。家族用には J-2 ビザがある。

ビザ申請前

J ビザの詳しい説明は以下のページにある。

とりあえず、申請用のアカウントを作っておく。ログイン後、左カラムから必要事項を入力できるが、現時点では記入できない項目も多く、後回しで良い。

ビザ申請料金の支払い

ビザ申請料金を支払う。支払い後一年間は申請が可能である。以下のページからクレジットカードで支払うことができる。支払い前後に表示される十一桁の受付番号を記録しておく。

DS-160 の作成

DS-160 はオンラインで作成する。詳しい説明は以下のページにある。

作成には顔写真のデジタルデータが必要となる。デジタルカメラで高画質かつ引き気味で撮影した写真を、ガイドラインを満たすように、後から画像編集ソフトで加工するのが楽かと思う。

DS-160 は以下のページから記入できる。

申請 ID が発行されるので記録しておく。記入途中でも保存できるので、作成を始めておく。

まとめ

——と、ここまではネット上ですぐにできる。私のような面倒臭がりは、とにかく簡単なことから手続きを始めて、やる気を出すことが大切である。

一番重要な書類である DS-2019 や、現実の折衝が必要となる手続きについては、次回以降に書く。

関連

2012/11/23/Fri.

2ちゃんねるなどでは、自らを卑下して「ウンコ製造機」ということがある。

人間、しょせんクソ袋。

私がこの認識に初めて出会ったのは十数年前、友成純一の小説においてであった。乱暴に要約すると、友成の物語は人間を(物理的に)グチャグチャにする話であり、それ以上でも以下でもない。例えば『陵辱の魔界』という作品には、以下のような描写がある。

少女は、口から胸もとにかけてを肉汁で汚している。まるで子供が、全裸で西瓜をむさぼり食ったみたいだ。

小腸を両手に握り、食いちぎっているところだった。死後まだまもないせいか、生のハラワタは歯応えがあるらしい。力をこめている証拠に目を固く閉じ、小腸の一部をしっかり食いしばっている。

両腕に力が入り、小腸はゴムのように伸びた。

ウンと瞬発的な力を出し、固い腸壁がようやくちぎれる。ブツンという鈍い音がした。

ちぎれ目から、水溶液になった消化物が飛び散り、腹腔内に滴る。

腹腔のなかはあらかた肉を食われたのかペシャンコに潰れ、濁った血溜りと化している。

(友成純一『陵辱の魔界』「第七章 淫肉千切りの朝」)

引用した箇所は、クライマックスでも何でもない。全編がこの調子なのである。一読した際、嫌悪感や恐怖を感じる前に、友成という人は何をしたいのだろう、と不思議に思った。その謎は巻末の解説によって明かされる。

マイダス王ならぬスプラッタ王・友成純一の指が触れるもの、ことごとく血と臓物と汚物に変化する。「人間の体などクソ袋でしかない」と口で言うのは簡単だが、その認識をここまで徹底的にリアルな描写で具現させられる作家は友成純一だけだ。

(引用前掲書、大森望「解説」)

友成は人体をクソ袋と認識しているのだな、と妙に納得したことを覚えている。

それと前後して、大学で生物学を修めるうちに、友成とは別の意味で、動物個体はクソ袋なのだと思うようにもなった。脊索動物の体は位相幾何学的にチクワと同じ構造を持つ。すなわち、口と肛門の二箇所で外界に開いている。口から入った食物は、クソとなって肛門から排出される。より精確にいうなら——、食物が流入するところが口、クソが排出されるところが肛門と呼ばれている。というのも、原口が口になる動物(旧口動物)と肛門になる動物(新口動物)が存在するからである。口と肛門の区別は、その程度のものでしかない(そして私は今でも body plan という概念に疑義を抱いている)。

さらに原始的な動物になると、口と肛門の区別がなくなる。代表的な生物はクラゲである。外界に開いているのは一箇所のみで、全体としては褒状、まさにクソ袋の形態を成す。

「我々はクソ袋である」。この命題は恐らく真だろう。だが、人はクソをするのみに生きるにあらず。——というよりも、人は生きるために飯を食いクソをするのであって、クソをするために生きるわけではない。すなわち、全てのクソ袋は「生きているクソ袋」である。

これは「私とは『生きている私』に他ならない」ことと同じである。「人間とは○○である」という主張は数限りなくあるが、ほとんどが「生きている」という限定を暗黙裏に省略している。しかし私は、生きているという条件こそが肝要だと考える。

友成の小説は「生きている」人体をグチャグチャにする話である。死体をグチャグチャにする話では、どうしようもない。

「ウンコ製造機」という言葉からは機械が連想される。ここには、「生きていないのと一緒だよ」という心情が暗示されている(ように私には思われる)。その意味でウンコ製造機はクソ袋より重症であり、ネタとして sharp である。

2012/11/19/Mon.

申請していた留学助成の内定通知が届いた。ありがたいことである。ボスのグラントから給料をもらうのと、自分で食い扶持を用意するのとでは、やはり大きな違いがある。

今回の助成は、公益財団法人から頂く。財団 foundation はもちろん自前の基金を持っているが、それだけでなく、篤志家(丸めて言えば金持ち)や企業から寄付を募ってもいる。寄付行為は、善意を顕すだけではなく、税金対策にもなる。したがって、寄付金を含む助成は税金に準じるもの——国庫に行くか財団に行くかの違いしかないもの——だと私は考えている。大切に使いたい。

米国では、私立財団を中心に、大学への寄付が盛んである。二〇一〇年における米国の大学への寄付総額は二八〇億ドル、一位の Stanford University が集めた寄付金は六億ドルだという。ちなみに、平成二十三年度の東京大学の寄付金収入は七十二億円である。桁が一つ違う。

今年の山中伸弥先生のノーベル賞受賞で良かったことは、研究には金が要る、寄付をしてくれという、山中先生の堂々とした発言である。日本で研究機関への寄付が少ない理由は様々だと思うが、単純に、その存在や必要性が広く知られていなかったことも一因であろう。これを機会に、我が国でも私立の寄付・助成制度がさらに根付いてほしいと願う。

日本の寄付事情については、欧米の establishments に比べて、日本の富裕層にはノブレス・オブリージュ noblesse oblige の哲学が稀薄だからだという意見もある。確かにそうかもしれない。けれども、一般市民の喜捨精神は、むしろ日本が強いのではないかとも思う。それは震災復興に対する募金活動を見てもわかる。

日本に Bill Gates はいないが、善意に富んだ国民が大勢いる。文部科学省は大学に外部収入の増加を求めているが、米国の寄付モデルを真似るだけではなく、日本の国情に合わせた制度を整えることが肝心ではないかと思う。

2012/11/18/Sun.

以下の二冊はいずれもハヤカワ文庫の<数理を愉しむ>シリーズである。

スタインの著作ではハイゼンベルクの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理に加えて、ケネス・アローの業績に紙幅が割かれている。アローの定理は、個人の選好順位を元に社会全体の選好順位を決定する完全な方法——つまり、理想の民主的選挙法——は存在しない、というものである。その他、P ≠ NP 予想(いわゆる計算爆発問題)や連続体仮説など、我々がいまだ答えを知らない、知ることができるのかどうかが定かではない問題が扱われている。面白い。

ウィルチェックは、量子色力学 QCD における強い力の理論でノーベル賞を受賞した物理学者である。本書では、時空=グリッドから質量が生じる過程がイメージ豊かに描かれている。後半では、重力を含めた統一理論への指針についても触れられている。

2012/11/17/Sat.

絵画教室三十八回目。五枚目の水彩画の十一回目。モチーフは寿司(の写真)。

背景を塗り始める。広い面積をムラなく塗るのは私の苦手とするところである。随分と講師氏に手助けをしてもらった。

寿司下駄の背後を飾る木の枝にも筆を入れる。細い葉が密に重なっている様を描き込んでいくのだが、この枝は画面奥に存在するので、細部がぼやけてもいる。のっぺりしているわけでもなく、淡いわけでもないその雰囲気を再現するのが難しい。

関連

過去の絵画教室

2012/11/16/Fri.

ES 細胞に何らかの遺伝子や薬剤を加え、望む細胞系統への分化を促進する——。この種の操作を施したとき、実際には何が起きているのか。私はただ何となく、ある系統への発生学的なプロセスが亢進されているのだと思っていた。しかし違うのかもしれない。非常に未分化な細胞間での direct reprogramming が起こっているのかもしれない。

(ES 細胞に因子 X を加えて培養したら、中胚葉マーカーを発現する細胞の割合が増えたとする。X は ES 細胞から中胚葉への分化を促進したのかもしれないし、内外胚葉を中胚葉へと transform したのかもしれない)

だが、いわゆるところの「発生学的なプロセス」や "direct reprogramming" が何なのかというと、上手く説明することができない。両者に本質的な差異があるのかどうかも謎だし、何をどのように検出・比較すれば良いのかもわからない。

この問題については一度、自分が抱いている概念の徹底的な脱構築が必要であると感じている。

例えば、多くの言説で「中胚葉」という言葉が何の検討もなく使われている。「中胚葉」という文字から複数の矢印が伸び、その先に心筋や骨格筋が描かれている図は、教科書や総説で目にするところである。この枠組みが当たり前になってしまうと、「中胚葉」というただ一種類の細胞が存在するかのような錯覚に陥ってしまう。

冷静に考えれば、中胚葉は region の名称であり、細胞種の名前ではない。中胚葉には様々な種類の細胞が含まれているはずである。それでは、中胚葉にはどのような細胞が存在するのか、それらはどのような性質を持ち、いかなる振る舞いをするのか。そして、どれほどのことが報告されているのか。

私はよく知らない。知らない、ということに気付く。多くのことの気付かねばと思う。

2012/11/15/Thu.

アレキサンダー大王やジンギス・カンは、なぜ彼らの帝国をあそこまで拡大せねばならなかったのだろうか。彼らの行動には大義や目的がないように——少なくとも私には——見える。だから私は、彼らのことが恐い。

加えて想像が難しいのは、彼らの巨大な帝国の統治機構の実際、それから本国や旧領の実情である。例えば帝国の子供は、見たこともない皇帝をどのように理解したのだろうか。「この国には皇帝という人がおって、その人がホンマは一番エラいんやけど、なんやずっと前から戦争に行ってて今もごっつい遠いところで戦ってはる」とでも教えられたのか。「アンタも大きなったら、兵隊さんになって皇帝のとこに行きや」。

このような状況に、空海伝説(遍在性)やサン・ジェルマン伝説(不死性)の要素を混合すると、「何百年も地の涯で戦い続けている皇帝と兵たち」というイメージが湧いてくる。なかなか魅惑的な像だと思う。

追記

2012/11/14/Wed.

『とびだせ どうぶつの森』をプレイしている。どうぶつの森シリーズは初プレイだが、膨大な収集要素があり、コンプリート欲を刺激される。

ゲームにおけるコンプリートが一種のメタ・ゲームであることは以前に書いた。

ゲームによっては「収集されること」それ自体が存在意義であるかのようなアイテム、すなわち、コンプリート難度を高めるためだけに作成されたアイテムすら存在する。そのようなアイテムを入手しても使い途はない。むしろ実用性がない方が好ましかったりする。なぜなら、必要のないものまでをも集め切ったという充実感が得られるからである。

このようなアイテムを収集するのは時間の無駄である、とされる。しかしここが面白いのであるが——、ゲーマーがコンプリートを目指す際に行っているのは、最短時間で作業を繰り返すための「最適化」に他ならない。何と彼らは、時間を無駄にしまいとしているのである!

最適解を得るには、不断の試行錯誤、詳細なシステム解析、頻繁な情報収集・交換が必要である。最適な行動を起こすには、理解、練習、準備、集中、持続、忍耐も求められる。オンラインゲームであれば、加えてコミュニケーション能力、役割に徹する協調性、場の空気を読む力がなければならず、自らが団体を組織するのであれば、さらにリーダーシップ、カリスマ性、調整能力などをも身に付けねばならない。ゲーム・プレイの最適化は決して機械的な行為ではない。論理的な思考と独創的な着想、精密な肉体動作、冷静な情熱の発揚を伴う、とても人間的な営為なのである。

明確な目的のために払われるこのような一連の努力が、単なる時間の無駄だとは私には思えない。無駄になるか否かは、ゲームでの経験を実生活に適応し、自らの成長を現実に発揮できるかどうかにかかっている。どうもゲーマーはこの点において少し下手なのではないか……、という臨床的な印象は確かにある。けれども、彼らが費やしたエネルギーと時間そのものが非難の対象となるいわれはない。

以前にも書いたが、ゲームのプレイと楽器の演奏は極めて類似している。譜面に合わせてスティックを振るという点では、『太鼓の達人』と『ドラムマニア』と電子ドラムとアコースティック・ドラムの間に本質的な差はない。『太鼓の達人』でフルコンボを達成することと、ある楽曲を完コピすることに違いはあるだろうか。

ゲーム・プレイの創造性はもっと一般に語られても良い。今回はアイテムのコンプリートについて書いたが、タイムアタックや縛りプレイについても全く同じことが言える。

2012/11/06/Tue.

手塚治虫の漫画群におけるスターシステムは広く知られている。同じ外見のキャラクターが、様々な作品に様々な役割で登場する仕掛けである。キャラクターを俳優に、漫画を映画に置き換えるとわかりやすい。

藤子・F・不二雄の漫画群は、スターシステムとは反対の構造で成立している。すなわち、様々な作品の同じ役割を別のキャラクターが演じる。ジャイアンとブタゴリラは別人だが、各作品内の位置付けは等しい。これをロールシステムと呼ぼう。同一パターンの作品を異なるキャラクターが演じるシステムである。これを極端にしたのが『水戸黄門』だといえる。

さて、あだち充である。彼の作品群に採用されているのは、スターシステムのようでもあるし、ロールシステムのようでもある。今のところ、あだち充システムとでも呼ぶ他ない。

ところで、『タッチ』における浅倉南の上杉兄弟に対する好意の変遷は、「顔が同じだったらそれで良いのか」と悪意的に読むこともできる。確かに達也は南を甲子園に連れて行ったが、明青学園が甲子園に出場できたのはナイン全ての活躍があったからである。「甲子園に連れて行って」が本当に南の夢であるのなら、和也亡き後、彼女はその夢を他の野球部員に託すこともできた。というより、それが自然であった。なぜなら、達也は野球部員ではなかったからである。「*ただしイケメンに限る」をこれほど露骨に——達也と和也は一卵性双生児だが性格は似ていない——表現した漫画も珍しい。

2012/11/05/Mon.

老舗の料理屋では「変わらぬ味」が謳われていることも多い。フーンと思いながら食べるのだが、冷静に考えてみると、「味が変わっていないこと」を証明するのは難しい。自分を顧みればわかるが、味覚や嗜好は成長や老化に伴って大きく変容する。いったい誰の舌が、「変わらぬ味」を担保しているのか。

「変わらぬ製法」であれば理解もできる。しかし、素材は毎日別のものである。製法が同じなら、むしろ味は変わるはずである。

千原ジュニアは、「果汁百パーセントのジュース、あれは嘘ですよ」と言う。そのココロは、「本当に百パーセントなら、酸っぱい年や甘い年があるはずやん」。この問題はよく考えてみる価値がある。

二十年前の大根と今年の大根、これらは同じ味なのだろうか。二十年前の大根と今年の大根の味は、記憶によってしか比較できない。しかし上述したように、自分の舌は年々変わっている。実はこの二十年で大根の味は激変しているのだが、誰も気付いていないということはあり得る。

味覚や嗅覚は脳の中でも進化的に古い機能であり、ごく新しい機能である言語との結び付きが弱い。したがって、味覚や嗅覚の哲学はまだまだ未開拓の分野となっている。哲学はもっぱら言葉に依るものだからである。視覚や聴覚は言語とよく接続されているので、絵画や音楽が哲学的課題の導入に用いられることは多い。しかし味覚・嗅覚の例は少ない。せいぜい、味や匂いは奇妙に郷愁を誘うといった程度である。味の哲学はもっと探究されても良い。

科学的にはどうだろう。上の問題は全て、味の客観的な評価法が存在しないことが原因となっている。糖度や酸味の定量は可能だが、それだけでは「味」を記述したことにならない。我々が一般的に「味」というとき、そこには香り、歯応え、温度などの要素が加わっている。見た目も重要である。昆虫の形をした菓子を作ることは技術的に可能だが、誰も食べたいとは思わない。これはどちらかといえば食欲の問題だが、生物の根源的な欲求を促進・抑制する外的な刺激と、その制御機構はよくわかっていない。腹が減っているからといって何でも食べるわけではない。高等な動物ほどそうである。

味を述べるには味を定義する必要があるが、これは生半なことではない。まずは日々の食事の印象を具体的な言葉にするところから始める必要があるだろう。「美味い」「不味い」だけでは話にならない。

2012/11/03/Sat.

絵画教室三十七回目。五枚目の水彩画の十回目。モチーフは寿司(の写真)。

醤油皿に色を塗る。陶器の上で表面張力を発揮している醤油を表現するのが難しい。

湯呑にも筆を入れる。寿司屋でよく見かける、魚偏の漢字がたくさん書かれたアレである。ゴニョゴニョっと雰囲気で誤魔化すと途端にクオリティが下がる部分なので、面倒でも一字一字、習字でもするかのように書いていく。しかし一つだけわからない文字があった。魚偏に釘のように見えるのだが、調べてみてもそのような字はない。振り仮名は「さ○○」のようであるが、これまた判然としない。仕方がないので、この文字だけは適当にやっつけておいた。

夜はうどんすきで晩餐。

関連

過去の絵画教室

2012/11/02/Fri.

弟から、娘が生まれたという連絡があった。予定日は年明けだったはずなので、二ヶ月も早い。義妹が破水したのだという。手術は無事に済んで母子ともに健康であるらしいが、赤子は僅々千百余グラムの超未熟児である。缶ジュース三本分と考えると、いかにも小さい。元気に育ってくれよと願わずにはいられない。

まだ手放しでは喜べない状況ではあるけれど、それでも家族が増えるのはめでたいことである。しばらくは無理だろうが、早く姪の顔を見てみたい。