- ア・プリオリと偶然

2012/10/23/Tue.ア・プリオリと偶然

ア・プリオリ a priori であるとはどういうことか。

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において論理をア・プリオリなものとし、それを「語り得ぬもの」として示そうとした。……が、私には「ア・プリオリであるということ」が哲学的ブラックボックスにしか思えない。宗教であればそこに神を代入することも可能だろう。

それではどう考えるのか。例えば論理であるが、これは任意の法則による記号の結合である。AB、かつ BC ならば、AC。これはただの決まりごとに過ぎず、ア・プリオリなものとは私には思えない。ポイントは「任意の」という点にある。実際、法則は何でも良いのである。にも関わらず、我々の多くは、ある特定の公理系をいわゆる「論理」として採用する。恐らくその規則が、神経系による情報処理に適しているからであろう。ミツバチが特定の匂いに誘引されるように、鳥類が特定の色を忌避するように、我々は特定の公理群に従って考える。否、そのようにしか考えられない。私には、論理がア・プリオリなものではなく、単なる生物学的要請でしかないように思える。

では、その要請はどこから来るのか。現在の生物学のパラダイムでは、それは偶然の産物であると考えられる。我々がこのような身体へと進化したのは、偶然による(と考えられている)からである。この理論はよく検討してみると、実のところ危うい。それでは地球ができたのは偶然か、宇宙がこのような宇宙であることは偶然か、といくらでも拡大できるからである。

ここまで来ると、それはただ「ア・プリオリ」を「偶然」と言い換えただけではないのか、という疑問も生まれてくる。偶然とは何か。この問いに答えることは難しい。