- ハイデガーはオナニーをするか

2012/10/12/Fri.ハイデガーはオナニーをするか

日本人はキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝ったり教会で結婚式を挙げたりするのはおかしくないか、という疑問に対する明確な回答を得たので書いておく。要するに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が崇め奉る唯一神 YHWH とやらも、我が国におわします八百万の神々の一柱に過ぎないのである。日本には竃(かまど)の神様もいらっしゃるが、日本人は別に竃教徒ではない。普段は竃の神様のことなど忘れているが、竃の掃除をすれば思い出すし、思い出せば手も合わせる。YHWH に対する扱いも基本的にはこれと同じである。おお、そんな神様もいたなあ、もうそんな季節か、てなもんである。

これ以上書くとブッ殺されるかもしれないのでやめておく。

ハイデガーのおさらいが終わったので、続いて野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を再読している。私が哲学に興味を持つのは、科学をする上で、いったいその基盤はどうなっているのかという不安を覚えるからである。私の専門は生物学だから、そこから化学、物理学、数学、論理学と「下りて」いって、最後に哲学へと辿り着く。そのような階層構造が見て取ることで、何となく安心することができる。オーケー、世界は秩序立っている。もちろん幻想である。幻想なので、時々に勉強し直して補修しなければならない。

私にとって哲学者は謎の人種である。私は理学部の出身だから、数学者や物理学者とは間近に接する機会があった。彼らの生態は想像の範疇にある。けれども哲学者はわからない。いったいどのような人々なのか。

話は飛ぶが、フロイトの真に偉大な点は、性欲について大っぴらに語ったことに尽きると思う。私の直感では、性欲は我々がヒト Homo sapiens という生物であることと抜き難く結び付いている。一方で、哲学が性欲について語ることは稀である。少なくともハイデガーやウィトゲンシュタインは語っていない。哲学は、生物であることを取り払った上でなお残る人間 human being についての学だからである。のだが——、人間性というものが、本当に「生物であることを取り払った上でなお残る」かは検討に値する。私は問わずにはいられない。ハイデガー、お前はオナニーをしないのか。フロイトはしそうである。しかしハイデガーはわからない。私が哲学者を知らないからである。

私にとって「○○は自慰をするか」は「アイドルはウンコをするか」以上に重大な問題である。例えば佐藤優『獄中記』を読んでも同じことを思う。佐藤は五一二日間に渡って留置所に勾留された。『獄中記』には、その間の生活が細かく書かれてある。食事の献立、ラジオの放送、読んだ本、考えたこと、面会人、差し入れ、季節の移ろい、などなど。けれどもそれらを読了して私が抱くのは、「で、性欲処理はどうしたの」という疑問である(佐藤の頑健な風貌は、彼は不能かもしれないという予想を許さない)。無論、そんな馬鹿げた質問に対する答えはどこにも書かれていない。しかし、本当に馬鹿げたことだろうか。私はそうは思わない。

『獄中記』が優れているのは、私もまかり間違えば牢屋にブチ込まれるかもしれない、という想像を読者に呼び起こすからである。誰も刑務所に入りたいとは思っていない。にも関わらず、その可能性は常に開かれている。例えば私の上司は最低の下司野郎で、私は酒を呑むたびに「ブッ殺してやる」と放言している。もちろん実際に殺すつもりは毛頭ない。だから私は彼を殺さない。本当だろうか? 何かの事情で私が最高に不機嫌な日の朝、上司がいつもの無神経さで話しかけてくる、その中に期せずして私の家族を侮辱するような内容が含まれていたら、そして、そのときにたまたま私がメディウム瓶を握っていたら……、私は彼を殴るかもしれない。運が悪ければ彼は死ぬだろう。私は逮捕される。

私は何を考えるだろう。何で俺がこんなことにという呪い、殺すつもりはなかったんだという贖罪、家族や友人に対する申し訳なさ、今後どうなるのだろうという不安、少しでも罪を軽くするにはという打算、留置所に戻ったら便器を掃除しておかねばという適応、今日の晩飯は何だろうという食欲、っていうかこの検事さんのネクタイおかしいよねという感想。調書を取られながら、私は様々なことを想う。と同時に勃起しているかもしれない。冗談で書いているのではない。それが生物の robustness だと私は考えるのだが、哲学者をはじめ知識人がこの種の話題を取り上げることはほとんどない。そのことにいつも不満を覚える。

宮嶋茂樹『不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス』の中に面白いエピソードがある。南極大陸という、およそ世界中で最も過酷な環境で活動する隊員たちは疲労困憊していた。遠く故郷を離れ、長期に渡る男たちだけの生活だから、艶のある話も一切ない。そのような状況下での逸話である。

かくして、平成八年の大晦日を、私は南極大陸リュツォホルム湾昭和基地より、百キロ内陸で迎えたのであった。

標高一四〇〇メートル。気温零下一四度。大晦日とはいえ、平常の任務は続く。雪上車の給油は、手動ポンプである。整備は、雪上に寝ころがり、時には素手でおこなうのである。夜になると、燃料を節約するため車内は暖房を落とす。すると、吐く息が天井に凍りつき、つららとなって下がるのであった。もはや、女の夢も見ない。朝立ちもしない。

ところが、この大晦日のことであった。ある隊員が、車の中で、シャンプーを発見した。風呂なしでは使い道がないので、以前の隊員が置き忘れたのであろう。そのフタをとった瞬間である。

私は突如、ナニが立ったのであった。極地性欲研究家としてのスルドイ考察によれば、どうやら私は湯上がりの女の匂いを連想したのであった。

私だけではない。西村隊員、西平隊員、平沢隊員……。みなで一本のシャンプーを回して、匂いを嗅いだのであった。まるでシンナー中毒のガキが瓶を回すように、嗅いだのであった。

(宮嶋茂樹『不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス』)

ここには、嗅覚という原始的な入力が、鮮やかに性欲を喚起する様が活き活きと描かれている。シャンプーの匂いで勃起する男たちを、私はたくましいと思う。そのような彼らだからこそ、南極というヒトを拒絶する大地で、観測という人間的な行為を営むことができるのである。ここで勃起できない者は、精確な測定もまたできないだろう。