- Diary 2012/10

2012/10/26/Fri.

いつもの定義ゲーム。その人が放つオーラ aura とは何だろう。予感させるものと語られるものの差、というのが現時点で最もしっくりとくる説明である。「沈黙は金」という格言も、あるいはこのことを言っているのかもしれぬ。

ドラム日記

ドラムは毎日叩いている。そろそろ足も……ということで、まずは単純なリズム(とすら言えない定期的なキック)を織り込む練習をしている。初心に返って「てってってー」、それからスピッツ『ロビンソン』のようなテンポの遅い曲を楽しんでいる。

Wireless 接続の MacBook Air を電子ドラムに繋ぐことで、YouTube その他の膨大なリソースに瞬時にアクセスできるようになった。PV を観ながらドラムを叩くのはとても気持ちが良い。

読書日記

2012/10/23/Tue.

ア・プリオリ a priori であるとはどういうことか。

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において論理をア・プリオリなものとし、それを「語り得ぬもの」として示そうとした。……が、私には「ア・プリオリであるということ」が哲学的ブラックボックスにしか思えない。宗教であればそこに神を代入することも可能だろう。

それではどう考えるのか。例えば論理であるが、これは任意の法則による記号の結合である。AB、かつ BC ならば、AC。これはただの決まりごとに過ぎず、ア・プリオリなものとは私には思えない。ポイントは「任意の」という点にある。実際、法則は何でも良いのである。にも関わらず、我々の多くは、ある特定の公理系をいわゆる「論理」として採用する。恐らくその規則が、神経系による情報処理に適しているからであろう。ミツバチが特定の匂いに誘引されるように、鳥類が特定の色を忌避するように、我々は特定の公理群に従って考える。否、そのようにしか考えられない。私には、論理がア・プリオリなものではなく、単なる生物学的要請でしかないように思える。

では、その要請はどこから来るのか。現在の生物学のパラダイムでは、それは偶然の産物であると考えられる。我々がこのような身体へと進化したのは、偶然による(と考えられている)からである。この理論はよく検討してみると、実のところ危うい。それでは地球ができたのは偶然か、宇宙がこのような宇宙であることは偶然か、といくらでも拡大できるからである。

ここまで来ると、それはただ「ア・プリオリ」を「偶然」と言い換えただけではないのか、という疑問も生まれてくる。偶然とは何か。この問いに答えることは難しい。

2012/10/22/Mon.

Research proposal の下調べは峠を越えつつある。二百本前後の論文から主要な事実を抜き出し、ある物語に沿って並べるところまではできた。しかし、それでは単なる総説である。問題は、この物語をどう読むのかという点にある。「読む」とは創造的な行為である。——のだけれども、これは同時に科学でもある。合理的な想像、妥当な飛躍、現実的な夢であることが求められる。これを制約と感じるか、ゲームを面白くするための縛りと捉えるかは人それぞれだろう。いずれにせよ、自由であることと無秩序であることは異なる。秩序を見出すために、自由に考えるのである。

2012/10/21/Sun.

これまで深く考えたことはなかったが、横隔膜 diaphragm の筋肉、あれは何だろうか。MyoD を発現する横紋筋だが、いわゆる骨格筋とは異なる性質を示す。筋ジストロフィーモデルの Mdx マウスでは、骨格筋に比べて横隔膜は強い障害を受ける。筋再生の速度などが違うということだが、具体的に何が違うのか、よくわからない。

Research proposal を考える上で最も大きな問題は、いったい何がわかっていないのか、である。わかっていないことをわかるには相当の作業を要する。わかっていることは何か、なぜわかっていないのか(誰も問題だと思っていないのか、原理的にわかり得ないのか、技術的・金銭的に困難なだけなのか、重要ではないから誰も解明していないだけなのか)、どうすればわかるようになるのか、などなど。

我々は知らねばならない。我々は知るだろう。

(ダフィット・ヒルベルト)

ヒルベルトの楽観は最終的にゲーデルによって否定されたが——、それでも我々は、我々が知り得る限りにおいて知らねばならないであろう。この言葉の精神は、現在も輝きを失っていないと私は思う。

2012/10/20/Sat.

絵画教室の生徒展を見に行く。私は出品していない。いずれも劣らぬ力作が展示されていて面白かった。

絵画教室三十六回目。五枚目の水彩画の九回目。モチーフは寿司(の写真)。

割り箸と箸受け、手拭いとその籠に色を入れる。それぞれ異なる素材からできているので、質感の違いがでるように心掛けた。

講師氏、アシスタント嬢から「お前も来年は生徒展に出せ」と発破をかけられる。出品したいのは山々だが、来年から留学するので、生徒展どころか、この教室も辞めないといけない。しかし言いそびれてしまった。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

関連

過去の絵画教室

2012/10/16/Tue.

今日の日記は MacBook Air (MBA) で更新している。MBA は wireless 接続しかできないので、どうせならばと書斎ではなくリビングで使うことにした。いつもとは違う場所で文章を書くのはなかなか新鮮な気分である。リビングで物置きと化していた円卓と椅子(MBA より高額だったりする)に正当な使い途が開かれたのも嬉しい。

サイトの更新を行う上で問題なのは、MBA で GoLive が使えないことである。エディタでタグ打ちをしても良いのだが、私がしたいのは自分の文章を公開することであって、HTML を書くことではない。そこで色々のソフトを試してみたところ、BlueGriffon の使用感が最も GoLive に近いことがわかった。しばらく MBA/BlueGriffon で更新してみて、様子を見ようと思う。

話は変わるが、iPhone のデザインは優れているのだろうか。本当に素晴らしいデザインであれば、あれだけの人がカバーだのケースだのを付けるはずがない、といつも思う。要するに、iPhone のデザインは工芸品としては秀逸かもしれないが、industrial design としてはそうでもない、ということである。もっとも、Apple 製品最大の特徴は hardware と software の一体化なので、その「デザイン」を論じるのは非常に難しい。

2012/10/15/Mon.

「由来が "同じ" はずなのに異なる細胞へと分化する件」について再び。

iPS 細胞の実験は、全ての細胞の由来が万能性細胞であることを逆説的に示していると考えることもできる。iPS 細胞の樹立に想を得て、体細胞から別の(最終分化した)体細胞への direct programming の研究も行われた。次に行われるべき研究の一つは、その中間であろう。すなわち、体細胞から前駆細胞への reprogramming である。これは医療にも役に立つ。

体細胞 → iPS 細胞 → 最終分化細胞には二つの問題がある。一つは工数が多いこと、もう一つはそれとも関係するが、iPS 細胞の全てが目的の最終分化細胞に分化するわけではないということである。

そこで、体細胞 → 最終分化細胞への reprogramming が行われたわけだが、これにも課題が残る。一つは、reprogramming によって得られた細胞が本当に最終分化細胞と機能的に等しいのかという問題である。少なくとも iCM 細胞(心筋)には、本物の心筋と異なるのではないかという疑義が呈されている(とはいえ研究は始まったばかりだから、いずれ技術的に解決される可能性はある)。もう一つは、最終分化細胞には再生能力がないということである。

神経や心筋であれば問題ないかもしれない。しかし例えば、血液関連疾患で求められているのは血球ではなく造血幹細胞であり、ジストロフィーに求められているのは骨格筋ではなく衛星細胞である。私の予想だが、近い内に direct reprogramming into progenitor cells という論文が出るはずである。

ところで、私が最近考えているのは、心臓・骨格筋・血管系(これらに血球系を加えても良いが)の相違である。これらは互いに似ているともいえるし似ていないともいえる。それぞれに特異的な因子の研究は進んでいる。また、これらは共通の因子によって支えられてもいる。

以前の日記「転写因子の特異性と調節因子の非特異性」ではこの二階建てで考えていたが、しかしそれではやはり目が粗い。例えば、共通因子のサンプルとして挙げた p300 は、様々な組織で ubiquitous に発現している。考えをもう一歩進めるには、心臓・骨格筋・血管系に共通し、かつ、心臓・骨格筋・血管系に「だけ」共通する因子を想定しなければならない。

そんなものが本当にあるかはわからない。それでも、そのような観点で文献を漁ると、今まで見えてこなかったものが見えてくる(ような気がする)。どこかに sweet spot はないか。無論、簡単に見付かるわけがない。ここで私がやるべきは、一つの美しい仮説を立てることではない。できるだけ沢山の案を出し、それらをできるだけ簡便に検証できる具体的な実験系を考えることである。私は理論家ではなく実験者だからである。

2012/10/14/Sun.

MacBook Air を購入した。Mac mini からは Time Machine 経由でデータを移した。留学先にはこの二台を持っていく。現在使用中の Win ノートは実家で余生を送ることになるだろう。

MacBook Air の OS は 10.8 だが、Mac mini は 10.6.8 に留めている。この日記は Adobe GoLive 6.0 という二〇〇二年発売(!)のソフトで書いているのだが、これが 10.8 では起動しなくなるからである。十年来使い続けてきた環境はなかなか手放せるものではない。

以下は二〇〇七年十二月三日の日記である。

そろそろ HTML エディタを乗り換えようかなと考えている T です。こんばんは。

愛用しているのは Adobe GoLive 6.0。二〇〇二年の製品である。このサイトを作るために購入した(いや、最初は PageMill 3.0 だったかな)。以来、ほぼ六年に渡る日記はほとんどこのソフト上で書いている。購入当時、Mac OS のバージョンははまだ 8 とか 9 だったはずだ。この GoLive は今でも問題なく動いてプレーンな HTML を書くだけなら何の不都合もないのだが、文字コードや特殊文字、CSS の表示にはさすがに不満が出てきた。そろそろ買い替えどきかな。元は充分以上に取ったと思う。

それから五年。私はまだ GoLive を使っている。どうしたものか。

2012/10/13/Sat.

先週読んだ本を二冊。

『キャプテン・アメリカ〜』は『USAカニバケツ』『底抜け合衆国』『アメリカは今日もステロイドを打つ』の続編である。相変わらず面白い。

『怠け数学者の記』には一九五〇年前後のプリンストン高等研究所の様子が活写されていて興味深い。

2012/10/12/Fri.

日本人はキリスト教徒でもないのにクリスマスを祝ったり教会で結婚式を挙げたりするのはおかしくないか、という疑問に対する明確な回答を得たので書いておく。要するに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が崇め奉る唯一神 YHWH とやらも、我が国におわします八百万の神々の一柱に過ぎないのである。日本には竃(かまど)の神様もいらっしゃるが、日本人は別に竃教徒ではない。普段は竃の神様のことなど忘れているが、竃の掃除をすれば思い出すし、思い出せば手も合わせる。YHWH に対する扱いも基本的にはこれと同じである。おお、そんな神様もいたなあ、もうそんな季節か、てなもんである。

これ以上書くとブッ殺されるかもしれないのでやめておく。

ハイデガーのおさらいが終わったので、続いて野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を再読している。私が哲学に興味を持つのは、科学をする上で、いったいその基盤はどうなっているのかという不安を覚えるからである。私の専門は生物学だから、そこから化学、物理学、数学、論理学と「下りて」いって、最後に哲学へと辿り着く。そのような階層構造が見て取ることで、何となく安心することができる。オーケー、世界は秩序立っている。もちろん幻想である。幻想なので、時々に勉強し直して補修しなければならない。

私にとって哲学者は謎の人種である。私は理学部の出身だから、数学者や物理学者とは間近に接する機会があった。彼らの生態は想像の範疇にある。けれども哲学者はわからない。いったいどのような人々なのか。

話は飛ぶが、フロイトの真に偉大な点は、性欲について大っぴらに語ったことに尽きると思う。私の直感では、性欲は我々がヒト Homo sapiens という生物であることと抜き難く結び付いている。一方で、哲学が性欲について語ることは稀である。少なくともハイデガーやウィトゲンシュタインは語っていない。哲学は、生物であることを取り払った上でなお残る人間 human being についての学だからである。のだが——、人間性というものが、本当に「生物であることを取り払った上でなお残る」かは検討に値する。私は問わずにはいられない。ハイデガー、お前はオナニーをしないのか。フロイトはしそうである。しかしハイデガーはわからない。私が哲学者を知らないからである。

私にとって「○○は自慰をするか」は「アイドルはウンコをするか」以上に重大な問題である。例えば佐藤優『獄中記』を読んでも同じことを思う。佐藤は五一二日間に渡って留置所に勾留された。『獄中記』には、その間の生活が細かく書かれてある。食事の献立、ラジオの放送、読んだ本、考えたこと、面会人、差し入れ、季節の移ろい、などなど。けれどもそれらを読了して私が抱くのは、「で、性欲処理はどうしたの」という疑問である(佐藤の頑健な風貌は、彼は不能かもしれないという予想を許さない)。無論、そんな馬鹿げた質問に対する答えはどこにも書かれていない。しかし、本当に馬鹿げたことだろうか。私はそうは思わない。

『獄中記』が優れているのは、私もまかり間違えば牢屋にブチ込まれるかもしれない、という想像を読者に呼び起こすからである。誰も刑務所に入りたいとは思っていない。にも関わらず、その可能性は常に開かれている。例えば私の上司は最低の下司野郎で、私は酒を呑むたびに「ブッ殺してやる」と放言している。もちろん実際に殺すつもりは毛頭ない。だから私は彼を殺さない。本当だろうか? 何かの事情で私が最高に不機嫌な日の朝、上司がいつもの無神経さで話しかけてくる、その中に期せずして私の家族を侮辱するような内容が含まれていたら、そして、そのときにたまたま私がメディウム瓶を握っていたら……、私は彼を殴るかもしれない。運が悪ければ彼は死ぬだろう。私は逮捕される。

私は何を考えるだろう。何で俺がこんなことにという呪い、殺すつもりはなかったんだという贖罪、家族や友人に対する申し訳なさ、今後どうなるのだろうという不安、少しでも罪を軽くするにはという打算、留置所に戻ったら便器を掃除しておかねばという適応、今日の晩飯は何だろうという食欲、っていうかこの検事さんのネクタイおかしいよねという感想。調書を取られながら、私は様々なことを想う。と同時に勃起しているかもしれない。冗談で書いているのではない。それが生物の robustness だと私は考えるのだが、哲学者をはじめ知識人がこの種の話題を取り上げることはほとんどない。そのことにいつも不満を覚える。

宮嶋茂樹『不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス』の中に面白いエピソードがある。南極大陸という、およそ世界中で最も過酷な環境で活動する隊員たちは疲労困憊していた。遠く故郷を離れ、長期に渡る男たちだけの生活だから、艶のある話も一切ない。そのような状況下での逸話である。

かくして、平成八年の大晦日を、私は南極大陸リュツォホルム湾昭和基地より、百キロ内陸で迎えたのであった。

標高一四〇〇メートル。気温零下一四度。大晦日とはいえ、平常の任務は続く。雪上車の給油は、手動ポンプである。整備は、雪上に寝ころがり、時には素手でおこなうのである。夜になると、燃料を節約するため車内は暖房を落とす。すると、吐く息が天井に凍りつき、つららとなって下がるのであった。もはや、女の夢も見ない。朝立ちもしない。

ところが、この大晦日のことであった。ある隊員が、車の中で、シャンプーを発見した。風呂なしでは使い道がないので、以前の隊員が置き忘れたのであろう。そのフタをとった瞬間である。

私は突如、ナニが立ったのであった。極地性欲研究家としてのスルドイ考察によれば、どうやら私は湯上がりの女の匂いを連想したのであった。

私だけではない。西村隊員、西平隊員、平沢隊員……。みなで一本のシャンプーを回して、匂いを嗅いだのであった。まるでシンナー中毒のガキが瓶を回すように、嗅いだのであった。

(宮嶋茂樹『不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス』)

ここには、嗅覚という原始的な入力が、鮮やかに性欲を喚起する様が活き活きと描かれている。シャンプーの匂いで勃起する男たちを、私はたくましいと思う。そのような彼らだからこそ、南極というヒトを拒絶する大地で、観測という人間的な行為を営むことができるのである。ここで勃起できない者は、精確な測定もまたできないだろう。

2012/10/09/Tue.

今年のノーベル生理学・医学賞は山中伸弥博士と John Bertrand Gurdon 博士に贈られた。受賞理由は「成熟した細胞に対してリプログラミングにより万能性を持たせられることの発見 (for the discovery that mature cells can be reprogrammed to become pluripotent)」。

iPS 細胞の研究や、山中先生の素晴らしい人となりについては色々なところで書かれるであろうから、ここでは触れない。おめでとうございますと祝意だけ述べて、別のことを書く。

山中・Gurdon という「抱き合わせ」と受賞理由を見て思うのは、ES 細胞とは何だったのか、ということである。山中因子を含む初期化候補遺伝子の多くは ES 細胞の研究から得られたものである。そもそも、iPS 細胞樹立の目的は「ES 細胞と同じ細胞を作る」ことであった。したがって、iPS 細胞が有用である理由の大半は、ES 細胞が有用な理由でもある。

何が違うのか。ES 細胞の樹立には初期胚の破壊が必要である。ローマ・カトリック教会や(主に米国の)キリスト教原理主義者は、この点を問題視している。二〇〇一年、Bush 米大統領は、ヒト ES 細胞の研究に対する連邦政府からの助成を禁止した。この禁は二〇〇九年に Obama 大統領によって解かれるが、iPS 細胞が樹立されたのは、まさにこの助成禁止期間であった(マウス iPS 細胞が二〇〇六年、ヒト iPS 細胞が翌二〇〇七年)。

この後、iPS 細胞に想を得て、体細胞を別種の体細胞に直接 reprogram する研究が進む。二〇一〇年には iN 細胞(神経)が Stanford 大学から報告されたが、同年には iCM 細胞(心筋)が家田真樹博士、二〇一一年には iHep 細胞(肝臓)が鈴木淳史博士によって樹立されるなど、日本人の活躍が目覚ましい。iPS 細胞の研究にはこのような波及効果もあったのだが、重要なのは、これら i 細胞に必要な因子の多くも、やはり ES 細胞の研究によって見出されたものだということである。

ES 細胞の研究は、二〇〇七年に「胚性幹細胞を用いての、マウスへの特異的な遺伝子改変の導入のための諸発見」という理由でノーベル賞を受けてはいる。何だかモヤモヤするのは、マウスに限定している点と、医療応用への可能性に触れていないからであろう。

ES 細胞はまだ一般に医療応用されていないじゃないか、と言われるかもしれない。しかしそれは iPS 細胞も同じことである。だから iPS 細胞の受賞理由は reprogramming ということになっているのだが、遺伝子を入れただけで細胞が形質転換することは MyoD の研究でもわかっている。大体、MyoD の研究はそれ単独でノーベル賞を授けられてしかるべきなのだが……と思って調べたら、Harold Weintraub 博士は一九九五年に亡くなっていた。なんてこった!

iPS 細胞の研究とその成果は、これまでの医学・生物学にはなかった、ちょっと独特の業績で評価の仕方が難しい(もちろん偉業であることは論を俟たない)。どう考えたら良いのかと思い、あれこれとまとまりのないことを書いた。

一つは、アイデアとは何かということである。ES 細胞がなければ、そもそも iPS 細胞という vision 自体が描けなかったのは間違いない。また、マスター遺伝子という概念がなければ、少数の転写因子を導入してみようという着想も湧かない。そして、細胞が初期化され得るという事実がなければ、それをより人工的に制御してやろうとも思わない。山中先生は、これらのアイデアを見事に統合し、極めて簡単な方法で解決の実例を示した。けれども、なぜ山中因子で iPS 細胞ができるのかという謎はまだほとんど解かれていない。学問には時間がかかる。研究するべきことは山積している。その一方で、応用に向けた技術開発が怒濤の勢いで進んでいる。このあたりの状況も「これまでになかった、ちょっと独特」の感じが強い。政府をはじめ外野の援助と介入が凄まじいのも気になるところである。

そういうことを再考すると、ノーベル賞委員会による受賞理由と人選は、よく練られたものであるようにも思えてくる。

2012/10/07/Sun.

一一三〇、按摩六十分。一三〇〇、ネパール料理。一五一〇、北野武『アウトレイジ ビヨンド』、面白いけれども前作ほどの緊張感はない、無用の逸話・登場人物が多い、銃殺が多く殺し方が単調、ラストは良い。

諫山創『進撃の巨人』、荒川弘『銀の匙』各最新刊。『巨人』は素人評論家の批評慾をくすぐる作品だが、それはそれだけのことなのであって、この漫画を分析したところで大したものは出てこない。読者は『巨人』という作品に様々の付け足しをしたくなる。しかしそれは、この作品の奥が深いからではなく——、スカスカだからである。評論において、しばしば作品語りは自分語りへと変質するが、『巨人』は特にその傾向を助長する作品なのだと思う。

留学先での research proposal を考えている。実際にそれを行うか否かはともかく、何かないかと問われたときに、何もないで済ますわけにはいかない。

2012/10/06/Sat.

絵画教室三十五回目。五枚目の水彩画の八回目。モチーフは寿司(の写真)。

寿司下駄に色を塗る。滲みを利用して、木目を上手く描くことができた。

手拭いにも筆を入れる。白地に紺色の水玉が整然と並んでいるのだが、手拭いは折り畳まれているから、実際に目に映る水玉は楕円で、大小も様々で、その列も波打っている——ように見える。それでもなお我々は、「同一の正円が格子状に並んでいる」ことを理解することができる。

絵を描くというか、形を取る上で最も難しいのは、幾何学的構造を精確に再現することのように思う。

人間の眼は幾何学的構成を高感度で検出する。ジャガイモのような凸凹した形状が多少変形していても我々は気付くことができない、気付いたとしてもそれほど気にならない。しかし、円、直線、平行、直交といった幾何学的性質(例えば画布に再現されるのは直線そのものではなく、その直線性である)の僅かな歪みはすぐにそれとわかるし、そのときに抱く気持ちの悪さもまた大きい。

人間の眼が幾何学的構成を高感度で検出するのはなぜか、という問いは恐らく間違っている。人間の眼が高感度で検出する構成が幾何学(特にユークリッド幾何学)の対象として選ばれた、というのが正解だろう。

幾何学的構成を生物が検出するときに重要だと思えるのは、その時間性である。直線は二点間を結ぶ最短の経路であり、円は一点からの信号が単位時間あたりに伝播する最大の範囲である。このような性質は、ニューロンが発火する時間差や、ある時間内に発火するニューロンの数といった事象に置換することができる。我々は、幾何学的性質を時間的に把握しているのではないだろうか——。無論、妄想である。

夜は居酒屋で晩餐。

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