先日の日記で「漢字の開き方」について書いた。どこまで漢字で書くのか、というのは難しい問題ではある。と同時に、悩んでも仕方のないことのようにも思われる。万人にとって最善な表記は存在しないからである。同じ言葉でも、ある箇所では漢字が読みやすく、また別の箇所ではカナの方が好もしい、といったことも考えられる。では臨機応変に対応すれば良いのかというと、それでは表記に統一がなくなってしまう、という問題が新たに生まれる。結局——、原則の柔軟な妥協、とでもいう他ない運用に落ち着く。
ある言葉を漢字で書くと決めたときに、次に悩むのは「どの漢字を用いるか」である。「書く write」と「描く draw」のように、意味も違えば文字も違う場合は迷う余地がない。せいぜい辞書を引いて確認するくらいのものである。困るのは、意味も文字も同じときである。例えば「涙」と「泪」である。これらは同じ文字(異体字)である。泪は涙の俗字であり、両者は字源と読みと意味が同じで形だけが違う。
どちらが正しいのか、という議論はおよそ——私がコンピュータを用いて文章を書く上で——無駄である。小池和夫『異体字の世界 旧字・俗字・略字の漢字百科』を読んで、そう思い至った。この本では、漢字の成立と変遷、近代日本における漢字の整理、現代の漢字コードが抱える問題などが簡潔にまとめられている。筆者は漢字整理推進論者であるが、私は「もっと気軽に作字をしても良いのか」という真逆の感想を得た。個人的な作字・作語とその使用は以前からの課題であり、その一つの派生として「異世界の物語における言語」という主題についてもずっと考えている。
この日記は Unicode で記述しているが、それは使用可能な漢字が多いからである。表現は自由であらねばならず、それには選択肢が多い方が良いに決まっている。とはいえ、結局のところ HTML/XML の制約が大き過ぎ、本当に形式から自由になるには手書きで文章を記すしかない、という想いは年々強くなるばかりである(一方で、コンピュータ特有の表現を追求することもまた課題として存在する)。
話が逸れた。「涙」と「泪」を使い分けることに大した意味はない、というのがひとまずの結論である。では、全く意味はないのだろうか。文芸的な意義はあるだろう、と私は思う。北条司『キャッツ♥アイ』に登場する三姉妹の長女は「来生泪」であるが、これが「来生涙」だと違和感がある。もっとも、創作上の効果は個人的で主観的なものであるから、必ずしも共感が得られるとは限らない。
例えば私の場合、ツツーと流れるのが「涙」で、ポロポロと零れるのが「泪」なのだが、これらは勝手なイメージであり、辞書で区別されているわけではない。けれども、仮に私がナミダを主題とした小説を書いたとして、その作品の中で明確な使い分けをしたとすれば、その local な時空間においては異義異字として成立する、という可能性を考えることはできる。