- 漢字の開き方

2012/05/23/Wed.漢字の開き方

漢字を開くかどうかの判断は難しい。自分なりの規則はあるが、それも時間とともに変化したりする。

坂口安吾は奇妙な仕方で漢字を開く——しかもカナで書く——が、その理由は「漢字を書くのが面倒だから」だったという。このことを知って以後、漢字表記で深く悩むことはなくなった。それにしても、安吾のこの逸話は本当なのだろうか。

一九四七年十月三日、文部省は新仮名遣いについて作家からヒアリングを行っている。作家陣の中には安吾もいた。この問題に関する彼の見解は『新カナヅカヒの問題』に詳しい。

私らのやうに文士たちは、なんとかして、自分の作品が誤読されないやう、又、読みやすいやうにと色々と考へる。そこで、私はなるべく難しい漢字は使はぬ方法をめぐらし、できるだけカナで書くやうにつとめるけれども、ヒラガナが十五も二十もつゞくと読みにくいものだから、適当に漢字を入れて読み易くする、そこで私は「出来る」とか「筈」といふ変な漢字をよく用ひるが、それは、これらの文字がたいがいヒラガナの十も十五も連続する時に使はれ易い字だからで、そんな時に漢字を入れると読み易くなるものなのである。

(坂口安吾『新カナヅカヒの問題』)

安吾のカナ書きは「誤読されないやう」「読みやすいやう」に「色々と考へ」た結果だと読める。しかし、本音は違うようである。

以上、まことにザッパクにまくしたてたが、私の意見は、主旨として、新カナヅカイも漢字制限も大賛成であるといふこと、なぜならば、ムダな労力がなくなるからで、そして又、ムダな労力がなくなることは国語ばかりのことではなく学問全般に一貫して実施されなければならないことで、日本の古典、漢文の古典も一般の人々が現代語でねころんで味読しうるやうな様式、西欧の名著もあげて現代語に訳して、学生たちは言葉の解釈を習ふのでなく、物の実質を味得する要領で、その実質を学ぶことが学問だといふ、さういふ態度を確立しなければならない。

(同前、傍線引用者)

結局のところ、漢字を書くのが面倒であるらしい。安吾の意見は、明治の頃から議論され続けた漢字廃止論(仮名のローマ字化を含む)や英語公用語論の延長線上にあるものと見て良い。これらの理論の中心は効率化、すなわち「ムダな労力」の削減である。

彼らの主張は理解できないでもないが、漢字廃止論には賛同しかねる。第一、英語に比べて日本語は非効率的だから表記を変更する、というのは非効率的で非論理的である。それほど英語が効率的なら、素直に英語を使えば良いではないか。だから、公用語に英語を採用するという意見には賛成できる(primary language として従来の日本語を残すことが前提になるが)。

このような考えを通じて、僕は数年前から、積極的に英単語を文中に挿入するようになった。ある言葉を英語で書くかどうかは、漢字を開くか否かとそれほど変わることのない、単なる表記上の問題だと思ったからである。面白い文章効果が狙えるところも気に入っている。ただ、やり過ぎると嫌みになるので、使用に際しては幾つかのルールがある。

これらの条件は、漢字を開くかどうかの基準とも一部合致する。要約すれば、自分に扱い切れない難しい言葉は無理に使用しない、ということであろうか。至極常識的な結論ではあるが、人はとかく文章を難解にしたがるので、これくらいの戒めがあっても良いだろう。

一方で、この戒律は裏問の存在も新たに指摘する。世間一般には用いられないが、自分にとっては馴染み深い言葉——僕にとっては多数の学術用語がこれに該当する——をどう扱うか、という問題である。専門用語の使用に関しては、以前に少し議論した。

上に引用した安吾の文章は確かに読みやすいかもしれないが、いささか冗長な感は否めない。と同時に、何だかおかしみがあり、読むこと自体に快楽がある。この快感は、安吾の主張の内容とは基本的に無関係である。文章というよりは、文体の持つ力だといって良い。そして、漢字の開き方が安吾の文体と密接に関係していることは一目瞭然である。

やっぱり漢字の開き方は重要だよな……、ということで、意識は冒頭の設問に戻る。堂々巡りではある。が、僕は一概に堂々巡りを否定しない。意識の堂々巡りはトートロジーではない。恐らくではあるが、堂々巡りはそこで活性化される神経回路を増強する。つまり、一巡目と二巡目は異なる経路を辿る。同じことを同じように考えられないのだから、次第に結論も変わってくる。漢字の開き方が変化するのも、そのせいかもしれない。