- 異化

2012/05/16/Wed.異化

先の日記では序数について述べた。時間の概念を含むのが序数の特徴であった。翻って、算術で処理できるのが基数の利点である。五個から二個を除けば三個になる。一方、五番目から二番目を除いても三番目にはならない。

自然数論を展開したいのではない。「五番目から二番目を除いても三番目にはならない」。この、異様ともいえる nonsense な感覚が面白かったので、文章の異化について考えている。

文章は、意識しなければ自動的な言説に収斂し、首尾結構も自然と整ってしまう。この力は強大である。書いている(はずの)者は、いとも容易く、書かされている者へと成り果てる。したがって書く者は、常に文を調教しなければならない。文章の異化——意図的で部分的な破壊——は、その方法の一つである。

簡単な具体例を挙げよう。作家には姓で呼ばれる者と名で呼ばれる者がある。この通例を反対にするだけで、意外なほど奇妙な効果を得ることができる。

以下は通常の文章である。

もちろん、鷗外に私淑し、漱石に師事した芥川が、漢文に無縁なはずはない。

(養老孟司『身体の文学史』「芥川とその時代」)

これを次のように置換する。

もちろん、森に私淑し、夏目に師事した龍之介が、漢文に無縁なはずはない。

何のことかと思う。が、理解できないわけではない。面白いと思うか心地悪いと思うかは、人それぞれだろう。

この手法は応用範囲が広いので、研究の余地がある。例えば、小説において女性は名で呼称されることが当然のようになっている。なぜ姓で記さないのか。謎である。「女性だけを名で示すのは男尊女卑的である」などと理屈を捏ねられ、この暗黙の法則が禁止でもされれば、およそほとんどの娯楽小説は読むに耐えないものとなるのではないか。

ここで重要なのは、女性・山田花子の呼称を「花子」から「山田」に変更するのは、ゲームとして fair だということである。しかし、女性「山田さん」を「山田君」と書き換えるのは unfair である。これは文章の異化ではなく、ルールに対する違反であると私は考える。

文章を異化する方法は多数ある。機会があればまた例示したい。大半は技術的に単純なものだが、要点は別にある。上の例でいうなら、「作家には姓で呼ばれる者と名で呼ばれる者がある」ことに気が付けるかどうか——、すなわち、異化の対象となるべき常識を疑えるかが肝心であろう。もちろん、文章に限った話ではない。