- 数と時間

2012/05/15/Tue.数と時間

先の日記で「序数(first)と基数(one)のどちらが先に成立したかはわかっていない」と書いた。

自然発生的な概念とは大きく異なるが、数学ではどうなっているのかを見てみよう。以下に示すペアノの公理は、自然数を公理化したものである。

公理は五つある。

  1. 0 は数である。
  2. どの数の後続数も数である。
  3. ab が数であれば、かつ、ab の後続数が等しければ、ab は等しい。
  4. 0 はいかなる数の後続数でもない。
  5. S が 0 を含む数の集合であり、しかも、S に含まれるどんな数 n の後続数もやはり S に含まれるならば、すべての数が S に含まれる。

(デイヴィッド・バーリンスキ『史上最大の発明アルゴリズム』「第2章 疑いの目」)

n の後続数(successor)とは n + 1 のことである。すなわち公理 3 は、a + 1 = b + 1 ならば a = b であることを意味する。

後続数という表現は面白い。n + 1 は n の「後」に来る数であって、n より「大きい」数というわけではない。「後」というのを時間的に「後」と解釈するなら、これは序数的な発想といえる。

自然数の定式化は他にもある。λ計算におけるチャーチ数は、関数による自然数の定義である。

自然数は以下の定義によってチャーチの体系に現れる。すなわち、λ計算における特定の式がしかるべき役割を演じるべく選ばれた定義だ。

1 = λfλx(fx)
2 = λfλx(f(fx))
3 = λfλx(f(f(fx)))

などなど、この調子でずっと上のほうまでつづく。

(前掲書「第8章 抽象への飛翔」)

チャーチ数では、n という数は「n 回の反復」として表現される。反復あるいは繰り返しとは何だろう。「n 回の繰り返し」と考えれば基数的であるが、それを知るには「繰り返しが n 回目で終わった」ことを認識しなければならない。これは序数的である。五回は five times だが、五回目は fifth turn だからである。

繰り返しはもちろん時間の概念を含むが、単純に直線的ではない。これはペアノの公理と異なる点である。しかしいずれにせよ、n + 1 回目が n 回目より「後」に来ることは変わらない。

ここまでの議論で、数、特に序数と時間に関係があることがわかってきた。考えてみれば当然のことなのだが、とにかく時間——我々が制御できない次元で一方向に等速で進む時間——は、私たちの思索から脱落しやすい。

さて、基数的な観点に立って、n + 1 が n よりも「大きい」ことを認めてみよう。序数的な立場では、n + 1 は n よりも時間的に「後」に来る数であった。両者を結合すると、時間的に後に来る数の方が大きい、という感覚が生まれる。

……当たり前だと思わずに、ここで是非とも妄想してほしい。我々はなぜ、上記の感覚を自然に受容するのだろう。なぜ、時間的に後に来る数の方が小さいとは思えないのだろうか。

一つの仮説として、生物の在り方との一致を挙げたい。

生物は、時間的に後に来る数を大きくすることを目的としているように見える。個体の様々な活動は、この根源的な志向の発露とはいえないか。

王はなぜ、領土を縮小するのではなく拡大しようとするのだろう。我々はなぜ、経験を、知識を、金銭を、友人を、減らそうとするのではなく増やそうとするのだろう。

これは「より良く生きる」という問題とも極めて密接に連関している。上述の思索を踏まえるなら、「より良く」とは「以前より良く」の意に他ならない。ここで問われているのは、時間依存的な函数の変化である。

序数もまた時間依存的な函数であることは既に述べた。自然数の公理で見たように、数がそもそも示しているのは、量ではなく関係である。私を含む科学者は、しばしば定量という言葉に振り回されてしまうが、定量それ自体は目的になり得ない。定量することで、様々な事物の関係を明瞭にすることこそが本来的な行為のはずである。数の公理に数字が含まれない事実は、極めて示唆的であるように思う。