- 数学と文学

2012/05/14/Mon.数学と文学

数学(論理学)も文学も、思考の精確な表現を目指している点では同じはずだが、一般的にこの二者は、両輪というよりは両極端と解されることが多い。

言語はヒト特有のものだという。中でも論理学は記号表現の極北にあり、論理学や数学史の本では、これらはまさに「人間の人間たるゆえん」などと書かれたりする。本当だろうか。巨視的に見て、論理学や数学を扱える人は極めて少数である。その意味では、論理や数学を駆使することはむしろ「人間離れ」した技だといって良い。人間特有であることと、人間なら誰もが使えることとは異なる。

数学と文学は使用する脳の領域が重複している、という仮説を立ててみよう。一方の回路が構築されると、もう一方を上手く処理するだけの余地がなくなるので、同時に受け容れるのが困難になる。論理数学記号の解釈は一義的だが、文学のそれは多義的である。似たような刺激に対して異なる処理を行うのだから、両者は conflict しやすい——。無論、証拠はない。

ルイス・キャロルのように、数学者にして文学者だった例もあるが、私には彼の数学的業績を評価する能力はない。しかし歴史的に、数学者は哲学者でもあった。哲学は論理学と極めて密接しているが、美や愛を語るなど、文学ともまた近しい。

先に「論理数学記号」と書いた。現在使用されている一連の記号の歴史は、実はそれほど長くない。記号論理学の創成に大きな貢献のあったライプニッツは、十七世紀後半の人である。同じ世紀の前半に、フェルマーは有名なメモを書いた。

ある三乗数を二つの三乗数の和で表すこと、あるいはある四乗数を二つの四乗数の和で表すこと、および一般に、二乗よりも大きい冪の数を同じ冪の二つの数の和で表すことは不可能である。

サイモン・シン『フェルマーの最終定理』「第II章 謎をかける人」)

この冗長な文章の意味は次の通りである。

xn + yn = zn (n > 2) を満たす自然数 n, x, y, z は存在しない

ここで指摘したいのは、フェルマーの覚書を理解するために必要なのは、数学ではなく、いわゆる国語の能力だということである。外国語やプログラミングを学べばわかるが、思考は言語の掣肘を受ける。したがって、記号が発明される以前と以後の研究者が、同じ問題を同じように考えていたかは疑わしい。同じであるはずがない、と思う。でなければ、未解決問題はいつまで経っても未解決のままであろう。

ここまで述べてきて思うのは、数学と文学は、どちらが早く成立したのだろうかという疑問である。私の妄想だが、論理的認識の萌芽は因果関係の把握として、primitive ではあってもかなり早期に実装されたはずである。AB、例えばウンコをすれば怒られる——、この程度なら犬でも理解している。

数学が誕生するには数の概念が必須である。しかしいまだに、序数(first)と基数(one)のどちらが先に成立したかはわかっていない。同様に、言語の起源も不明である。永遠の謎であろう。フランスの言語学協会は、言語の起源に関する議論を禁じているという。時間の無駄だからである。数学か文学か、あるいは数字か言語かという問いも、似たようなものかもしれない。