- 文章の長短、知と品

2012/04/25/Wed.文章の長短、知と品

専門家の文章は難解であるといわれる。主な理由は二つあると私は考える。一つは専門用語の頻用であり、もう一つは理論の圧縮である。この種の操作がなされるのは、著者が(しばしば意識せずに)暗黙知を要求するからである。したがって知識のない読者には、これらの文章は煩雑な上に飛躍があるように感じられる。

「難しいことを易しく書くのは難しい」といわれるが、私は必ずしもそう思わない。少なくとも自然科学の文章を平たく記述するのは原理的に可能である。そこにあるのは、観察された facts と、それらを結ぶ論理しかないはずだからである。ただ、確立された専門用語と理論を用いずに書くとなると、分量と作業が膨大になる。幾何の証明で、毎回ピタゴラスの定理を導き出していたのでは話が進まない。その意味で、「易しく書くのは "時間的、金銭的、体力的に" 難しい」というなら真である。

著者も読者もいつか死ぬ。時間は有限である。文章は短い方がよろしい。だから——それらを充分に使う機会があるなら——用語と理論を学び、駆使した方が、長期的には効率が良いという結論になる。

ある事柄を短い文章で表現すると、中身が複雑になる。工学的に考えれば当然である。Walkman は筐体が小さいために構造が難解だったはずである。だからといって、もっと大きく、単純にしろという批判はない。Walkman の構成を知らなくても音楽は聴けるからである。しかしながら文章は、中身を理解せずに著者の主張を知ることはできない。文芸作品を除き、文章は短ければ短いほど良いが、ある線を越えると、短いがゆえにわからなくなり、価値がゼロになる。そのような閾値が存在する。この閾値が個人で異なるから話が紛糾する。

確実にいえることは、わからないからわかりやすく書けと要求してそれが叶えられるのを待つよりは、書いてあることがわかるまで勉強する方が早いだろうということである。もっとも、勉強するのにも時間が掛かるから、その文章にそれだけの価値があるかという判断をまずしなければならない。ところが、的確な判断を下すのにも知識が要る。結局、何かを知りたいのであれば、何でも勉強しておくのが良いだろうということになる。

もっとも、全く文章を読まない生活というのもあり得る。そんな暮らしは知的ではない——、と反射的に反応してしまったとしたら、専門家あるいは読書家の悪癖に染まっている可能性が高い。どのような感想を抱こうとも個人の自由だが、それを公言するとなると品性の問題になる。知性があっても品位がなければただの人である。両者を兼ね備えている人は——恐らく、考えているよりもずっと——多いからである。品のある人物は自らの知を隠すので、なかなかそれとわからない。喝破するには、こちらも品性を磨くしかない。

ところで品性とは何だろうか。これは後の宿題としたい。覚書として一つ指摘しておきたいのは、下品な文章は往々にして長い、ということである。これは恐らく自己言及の欲求と関係していると思われる。