- 金閣はなぜ再建されたか

2012/04/21/Sat.金閣はなぜ再建されたか

「常識を疑え」という言説は極めて常識的である。本当に良い質問や疑問は、もう少し違った形で顕れる。

最近の私が思い付いた中で一番だと思うのは、「金閣はなぜ再建されたか」という疑問である。この面白さを理解してもらうには、少々の説明が要るかもしれない。この問いに裏や含意はない。書いたままの素朴な疑問である。その単純さは、金閣は再建されて当然と思うのと同程度の単純さである。

一九五〇年七月二日、金閣は放火により焼失した。三島由紀夫はこの事件を題材に『金閣寺』を書いたが、事実はもっと散文的なようである。いずれにせよ、焼けてしまったものは仕方がない。ではそこで、いったい誰が、どういう動機で「再建しよう」と考えたのか。私にはこちらの方がよほど文学的な主題であるように思われる。恐らく、再建を志した特定の誰それ、というものは存在しなかった。ごく当たり前のように運動が起こり、浄財が集まり、再建されたのだろうと思う。しかしさて、その最中に、「なぜ再建するのか」と問われて明確に答えられる人がいたかどうか。

鹿苑寺の関係者には、観光収入を維持するためという理由があろう。歴史学者や教育者なら、金閣の姿を後世に残すためと言うかもしれない。「建築物としてではなく symbol としての『金閣』が重要なのである。したがってこれは建築物の再建ではなく、symbol の再生である」と議論することも可能ではある。だが、このような説明で万人が——そして貴方は——納得するだろうか。

私は金閣の再建を否定しているわけではない。ただ、現存する金閣は、往時の金閣とは全く別物であると認識している。辛辣にいえば偽物である。もっとも、偽物だから悪い、劣っている、と主張するつもりもない。偽金閣は立派なものである。実際に観れば感動するし圧倒される。その後で、「ま、偽物だけどね」とつい思ってしまうというだけの話である。これはその人の歴史観の問題かもしれない。

「金閣はなぜ再建されたか」という疑問に結論はない。目的も実利もない。少なくとも私は持っていない。これらは、良い疑問の条件でもあると私は思っている。