- 夢の国(一)

2011/10/17/Mon.夢の国(一)

「終わらない物語」に劣らず気に掛かる主題はファンタジーである。カタカナでは違和感があるので「異世界の物語」と書くことにする。

異世界とは何だろう。無論、私が知るこの世界とは異なる世界のことであろう。何が違うのか。とにかく何から何まで違うのだ、異なれば異なるほどその世界の魅力はいや増すのだ、ということにしてみよう。社会が違う、文化が異なる、国家、言語、思想、宗教、歴史、学問……、否、そもそも生物からして異なる、というよりも生命体が存在するのかどうか、いや待て、生命とは何か、それは化学反応の連鎖であるといっても物理法則からして違うはずだから、時空間や宇宙という概念からして——、ああ、「概念」という概念すら無効であったな。といったあたりで「こりゃ無理だ」ということに気付く。どこかで妥協せねばならぬ。

「異世界の物語」を紡ぐ上でもう一つの大問題は、既知のものとは異なる(できれば全く異なる)事物を、既存の言語で綴らねばならぬことである。これは相当に難しい。作語しても良いが、その造語は新しい観念を示すものであると同時に、旧世界人である我々読者にもある程度は理解されるものでなければならない。でなければ、異世界の創造は言語の創造という課題に還元されてしまう(どころか、言語表現である必然性すら胡乱になる)。やはり、どこかで妥協せねばならぬ。

(脱線するが、読まれない物語、読まれても理解されない物語は、果たして「物語」たり得るのか。これは「無人の森で木が倒れたら音がするのか」という命題にも通じる疑問である)

ところで、荒巻義雄『大いなる正午』という短編がある。

——もしいるとしても、秘水路の存在を知る者は、無漏族の識者のみであった。

<秘>の分流は、そこより多次元的に急斜し、一気に通称<亜>の大岸壁へ奔流していた。

即ち<ウ>の中心部に存在すると伝えられる源より、四海六十四方へ時の水域をわけて流れ広がるナルの大水系、その一なる弥勒河! <河>はくだるにつれて麻のごとくちりぢりに乱れるが、その数億を数える分流の一つ——<秘>は、今や、急を告げる<海>に短絡する唯一の水路なのであった。

この作品は、防波堤を築いて河の氾濫を堰き止める土木技術の話なのだが、舞台が多次元になっている。この異世界を表現するために、作者が色々の工夫を凝らした結果が上の文章である。これを面白いと思うか否か、好みの別れるところではないか。

……ここまでの議論は「異世界原理主義」とでもいうべきものである。簡単に見てきたように、原理主義的に異世界を表現したり読解するのは恐ろしく困難である。不可能といっても良い。だからこそ歯応えがあるのだともいえるが、現実的には「妥協」の程度問題に過ぎない。

例えば、単に魔法が使えるというだけの世界は「弱い異世界」である。しかし、「魔法とは何であるのか」「魔法はその世界の法則のいかなる顕れなのか」「魔法が使えることによって、その世界は、魔法が使えない世界とどのような違いが生じるのか」——といった描写を重ねていくと、その世界は徐々に「強い異世界」へと変貌していく。その世界をどの程度の強さで構築するのかは、「異世界の物語」を創造するにあたって重要な課題である。

また、このような論理的な試みとは全く別の手法で異世界表現を向上させることもできる。それは純粋な文章技術——、単語の選択や造語であったり、文体、いうなれば詩的表現に属する技能である。この種の描写が醸し出すのは、厳しい言い方をすれば単なる異世界「感」に過ぎないのかもしれぬ。しかしそれもまた、「異世界の物語」の成立に重要な貢献を果たしていることは間違いない。

異世界についてはまだまだ考えるべきことが多い。我々はなぜ異世界を欲するのか。異世界は「どこ」に「ある」のか(存在するならばそれは「この世界」の物語である)。などなど、メタな問いは尽きぬ。

次回の日記では、僕が夢で見た国の話を書こうと思う。