- Diary 2011/10

2011/10/30/Sun.

私が携わっている生物学が、真に近代的な意味で成立したのは二十世紀半ば、その精華が医学に応用され始めたのはさらに後である。他の科学分野に比べると歴史は浅い。加えて生物学には、進化や脳といった、非常に議論が紛糾しやすい主題が数多くあり、「生物学は科学ではない」といった言葉は現在でも耳にすることができる。

科学とはいったい何なのか。この問題を考えるために、物理学や数学の成立について集中的に読み漁った時期がしばらくあった。私なりに考えて辿り着いた科学の定義は、「観察された事実と事実(facts)を論理(logic)で結んだ理論(theory)を仮説(hypothesis)として採用する体系」である。

この定義には二つの問題がある。

一つは「観察とは何か」である。いわゆる観測問題ではあるのだが、私が重視するのは「観察するのは私である」という、逃れ難い現実である。これは私と世界の関係性についての問いでもある。「世界の中に私はある」(唯物論)のか、「私の中に世界はある」(唯我論)のか。回答はない。唯一の拠り所は、私にとっての「実感」である。しかし、この考え方そのものが唯我論的ともいえる。

もう一つの問題は「論理とは何か」である。生命現象は化学反応である、化学反応は物理現象である、物理法則は数式で表現される、数学は論理学である、論理は記号で表現される——、このような経緯で私は記号論理学に興味を持つに至った。記号論理学の成果で驚愕したのは、「ただ一つの論理記号で論理を操ることができる」(瀬山士郎『はじめての現代数学』)という事実である。

さらにもっと驚くべきことに、次のような真偽値をとる複合命題を AB という記号で表わすことにすると、この↓一本のみですべての命題を表わすことができ、論理を操ることができることが知られている。

A B AB
0 0 1
0 1 0
1 0 0
1 1 0

試しに、AA を作ってみると次の表のようになり、AA = ¬A ということになる。

[表は略]

また (AB)↓(AB) の真理表を作ってみることにより(AB)↓(AB) = AB ということも分かる。

[表は略]

すべての複合命題を ¬、∨ で構成することができたことを考慮すれば↓のみですべての複合命題を表わすことができることが分かる。AB を↓を用いて表現してみると面白いであろう。

(瀬山士郎『はじめての現代数学』「4—形式の限界・論理学とゲーデル」)

「↓一本のみですべての命題を表わすことができ」るのならば、実のところその記号すら不要である。命題を掛け合わせる順番が明らかでありさえすれば良い。

「順番」というが、これは時間のことに他ならない。なぜなら、私にとって時間は不可逆的であり、順番の推移には必ず時間の経過を伴うからである。

したがって、「科学とは何か」という問題は私にとって、「私とは何か」「時間とは何か」という問いでもある。いわば「存在と時間」という……、あれ、ハイデガーではないか。

そして世界の見方がその存在の理解にぴったりと沿って導かれていればいるほど、その世界の「見方」はうまくゆくのである。たとえば、数学的物理学が成功しているのは、それが「事実」に厳密にしたがっているからなどではなくて(単純な事実などといったものはないのである)、数学的なものの見方に沿って展開されているからである。[略]

科学的活動というものはある存在了解の線に沿った投企だと見るのが正しい理解なのだとすれば、科学は本来的実存に根付いているのだということになる。[略]科学は本来的了解の一般的領域の内に含まれるのである。

(マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー『存在と時間』註解』「第八章 時間」)

「数学的なものの見方に沿って展開されているから」を私なりに裏返せば、「自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのである」となる。これは唯我論的であるが、ハイデガーもまたそうである。

真理は現存在の一性格であって、それゆえに独立に存在するものではないのである。このことから、真理は現存在が存在するかぎりにおいてのみ存在するというハイデッガーの言葉も出てくることになる。現存在なしには真理もないのである。

(前掲書「第五章 配慮・実在性・真理」)

最近の私が唯我論的な志向に惹かれているのは、そう考えれば全く何の問題も生じない(ように思える)からである。なにせ唯我論は絶対に否定できない。誰がどのように反論しようと、それすら私の脳髄の中に現れた幻だからである。

少々危険であるとは思う。

2011/10/22/Sat.

年に一度開かれるという、絵画教室の生徒展に足を運んだ。自分と同じ講座に通う人々の作品を観ることができて楽しかった。次回は私も出品したいものだ。

絵画教室十二回目。一色の水彩絵具による陰影彩色を終える。犬を描いたのだが、どうにもツルツルとした感じになってしまい、毛並みの質感が出なかったことには不満が残った。講師曰く、「濃淡を付ける練習だから、んなこたぁどうでも良い」。単色を塗り重ねただけで色彩もタッチもないのだから、当然ではある。

次は混色の練習ということで、黄と青を混ぜて緑を作った。一口に黄や青といっても、文字通り色々の絵具がある。これらを混ぜ、あるいは重ね合わることで、様々な緑が生まれる。次回からは、印刷でいうところの二色刷りの要領で混色について学んでいくのだという。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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過去の絵画教室

2011/10/17/Mon.

「終わらない物語」に劣らず気に掛かる主題はファンタジーである。カタカナでは違和感があるので「異世界の物語」と書くことにする。

異世界とは何だろう。無論、私が知るこの世界とは異なる世界のことであろう。何が違うのか。とにかく何から何まで違うのだ、異なれば異なるほどその世界の魅力はいや増すのだ、ということにしてみよう。社会が違う、文化が異なる、国家、言語、思想、宗教、歴史、学問……、否、そもそも生物からして異なる、というよりも生命体が存在するのかどうか、いや待て、生命とは何か、それは化学反応の連鎖であるといっても物理法則からして違うはずだから、時空間や宇宙という概念からして——、ああ、「概念」という概念すら無効であったな。といったあたりで「こりゃ無理だ」ということに気付く。どこかで妥協せねばならぬ。

「異世界の物語」を紡ぐ上でもう一つの大問題は、既知のものとは異なる(できれば全く異なる)事物を、既存の言語で綴らねばならぬことである。これは相当に難しい。作語しても良いが、その造語は新しい観念を示すものであると同時に、旧世界人である我々読者にもある程度は理解されるものでなければならない。でなければ、異世界の創造は言語の創造という課題に還元されてしまう(どころか、言語表現である必然性すら胡乱になる)。やはり、どこかで妥協せねばならぬ。

(脱線するが、読まれない物語、読まれても理解されない物語は、果たして「物語」たり得るのか。これは「無人の森で木が倒れたら音がするのか」という命題にも通じる疑問である)

ところで、荒巻義雄『大いなる正午』という短編がある。

——もしいるとしても、秘水路の存在を知る者は、無漏族の識者のみであった。

<秘>の分流は、そこより多次元的に急斜し、一気に通称<亜>の大岸壁へ奔流していた。

即ち<ウ>の中心部に存在すると伝えられる源より、四海六十四方へ時の水域をわけて流れ広がるナルの大水系、その一なる弥勒河! <河>はくだるにつれて麻のごとくちりぢりに乱れるが、その数億を数える分流の一つ——<秘>は、今や、急を告げる<海>に短絡する唯一の水路なのであった。

この作品は、防波堤を築いて河の氾濫を堰き止める土木技術の話なのだが、舞台が多次元になっている。この異世界を表現するために、作者が色々の工夫を凝らした結果が上の文章である。これを面白いと思うか否か、好みの別れるところではないか。

……ここまでの議論は「異世界原理主義」とでもいうべきものである。簡単に見てきたように、原理主義的に異世界を表現したり読解するのは恐ろしく困難である。不可能といっても良い。だからこそ歯応えがあるのだともいえるが、現実的には「妥協」の程度問題に過ぎない。

例えば、単に魔法が使えるというだけの世界は「弱い異世界」である。しかし、「魔法とは何であるのか」「魔法はその世界の法則のいかなる顕れなのか」「魔法が使えることによって、その世界は、魔法が使えない世界とどのような違いが生じるのか」——といった描写を重ねていくと、その世界は徐々に「強い異世界」へと変貌していく。その世界をどの程度の強さで構築するのかは、「異世界の物語」を創造するにあたって重要な課題である。

また、このような論理的な試みとは全く別の手法で異世界表現を向上させることもできる。それは純粋な文章技術——、単語の選択や造語であったり、文体、いうなれば詩的表現に属する技能である。この種の描写が醸し出すのは、厳しい言い方をすれば単なる異世界「感」に過ぎないのかもしれぬ。しかしそれもまた、「異世界の物語」の成立に重要な貢献を果たしていることは間違いない。

異世界についてはまだまだ考えるべきことが多い。我々はなぜ異世界を欲するのか。異世界は「どこ」に「ある」のか(存在するならばそれは「この世界」の物語である)。などなど、メタな問いは尽きぬ。

次回の日記では、僕が夢で見た国の話を書こうと思う。

2011/10/08/Sat.

絵画教室十一回目。

犬の線画を描き終えて水彩絵具による彩色に移る。陰影を学ぶのが目的なので、一色だけで濃淡を付けていく。柴犬をイメージして、色はバーントアンバーを選んだ。

白い部分を塗り残すように、まずは薄く溶いた絵具を塗っていく。紙面が乾いたら、薄い部分を塗り残し、先程よりは濃い絵具を置いていく。これを三回ほど繰り返して本日は終了。ざっくりとだが陰影が出てきて、それなりの雰囲気になる。線画さえあれば自宅でも短時間で遊べそうである。

夜は釜飯屋で晩餐。

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2011/10/01/Sat.

最近読破した本を掲げて評に代える。