- Diary 2011/09

2011/09/30/Fri.

二週間に一度の絵画教室について数日遅れで更新するのがやっとという状況が続いている。これではいけいない。忙しさにかまけて文章を書かないのは構わない。しかし、それによって考える習慣まで失われてしまうのは恐ろしい。

時間をかけて考えたい事柄は多い。

Never ending story の魅力については過去に一度述べた。夏目漱石『吾輩は猫である』も一つの「終わらない物語」であると思うし、またそれゆえに最も好きな小説となっている。

『猫』については漱石が以下のように述懐している。

もとより纏(まとま)った話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上においてさしたる影響のあろうはずがない。

この書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心もとなき海鼠(なまこ)のような文章であるから、たといこの一巻で消えてなくなったところで、いっこうさしつかえはない。

(上編「自序」)

こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。

(明治三十九年「文芸界」座談)

「終わらない物語」を考えていくと、そもそも物語とは何かという問題に突き当たる。例えば「終わらない」物語は「物語」であり得るのか。物語には必ず「始まり」があるが……、いやしかし、この前提から疑ってかかるべきなのかもしれぬ。

一般的に、物語は、一方向的に流れる時間軸の一部を切り出すことによって成立する。三次元空間の住人である我々は、このような時間感覚を当然のものとして諒解している。安住して思考を停止しているといっても良い。この「時間と物語」という巨大な——しかし普段は意識することのない——主題に、「終わらない物語」は光を投げ掛ける。

Sequential な時間の流れは、文章という表現方法と相性が良い。文は、順番に文字を追うことで成立するからである。これは言語の特性そのものでもある。また、記号を決まった順番で連結するという、ただそれだけのルールから成り立つ論理学と、そこから発展した全ての数学・自然科学にも共通する特徴である。「順番」というが、これは時間のことに他ならない。

順番に認識することによってのみ意味が把握される上記の事例を拡大解釈すれば、物語とは時間の経過そのものであるとすら言えよう。

(時間非依存的な認識の可能性、特に絵画や写真については「絵を習う予定」「寂しい人に」で述べた)

「この小説には物語がない」といった評もよく見られるが、何百頁にも及ぶ一連の文章が物語ではないということがあるだろうか。「物語=時間経過」という立場を採るなら、そのようなことは起こり得ない。ここで批判されているのは物語ではなく、恐らくはその「物語性」であろう。

そして、物語の物語性こそ文芸の関心事である。我々が望んでいるのは「終わらない物語」ではなく「面白くて終わらない物語」なのである。物語論と物語性論は峻別されなければならない。

物語性論を建てれば面白さを確保できるのか、すなわち技術論として有効に機能するのか——、というのは自然な疑問である。ハリウッド映画の脚本を思い浮かべれば、ある程度有用ではあるのだろうと思われる。このあたりの事情は、イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』で少し触れられている。

科学や歴史が物語であるのと同様に、物語論や物語性論もまた物語である。したがって「終わらない物語」論はまた「終わらない物語論」でもある。このような循環構造——メタ・フィクション性と換言しても良い——は「終わらない物語」にしばしば見受けられる。

それは多分、有限の事物しか認識できない我々が、無限=終わらなさを実感できる最も簡単なモデルが循環だからであろう。循環モデルを採用せずに無限を説明するのは難しい。子供を納得させるのは不可能なのではないか。

循環構造を採ることで逆に困難さが際立ってくるのは、物語の「始まり」である。物語は、なぜその時点(地点)から始まらなければならなかったのだろう。これは宿題として考えておきたい。

2011/09/17/Sat.

絵画教室十回目。

油絵を描くための色彩を学ぶための一色水彩画を描くための——下書き。動物のイラスト集から犬の絵を選んでモチーフにする。頑張って描くのだが、どうにも顔が犬らしくならない。何度も描き直している内に、画用紙がボロボロになる。ちゃんと絵具が乗るのか、いささか不安である。

結局、二時間を費やして犬一匹の線画を完成させることができなかった。漫画家って凄いよなと、少しズレた感想を抱いた。次回は下書きを終えて色を塗っていきたい。

夜はうどん屋で松茸と鱧の蕎麦。

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過去の絵画教室

2011/09/08/Thu.

六、七日と学会で北海道に行ってきた。

伊丹空港には大阪モノレールで向かった。このモノレールは高架の上に設置されているのだが、なぜか地表と並行してアップダウンを繰り返す。これでは高架にした意味がなかろうと、いつも思う。モノレールが水平になるように高さを調節しておけば、もっと運行も楽になったはずである。

このモノレールに初めて乗った人が抱く感想の大半は「恐い」である。中途半端に高い位置——しかも一本のレールの上——を、車体を傾けながら走るのだからもっともといえる。視界は開けており、眼下の道路や建物が仔細に見えるのもよろしくない。この恐怖は、ロープウェイやスキー場のリフトで感じるものと似ている。

落下したら間違いなく死ぬにも関わらず地表がはっきりと見える高さ、これが一番恐ろしい。その点で、伊丹空港での離着陸もなかなかのものである。地面に飛行機の巨大な影が落ちているときには、モヤモヤ感も一層高まる。込み合った建物のすぐ上を飛んでいるのだという実感は、関西国際空港では得られない。

現代の庶民にとって、飛行機への搭乗は、やはりハレの行為なのであろう。空港という場所は妙にテンションが高い。店という店に、軒並み「スカイ」が付されているのはその顕れである。スカイラウンジ、スカイブック、スカイショップ云々。いや、ここ地上だから。

多分、ふた昔前の新幹線もこんな雰囲気だったのだろう。新幹線の売り子のスカーフにその名残を見ることができる。スチュワーデスもスカーフをしている。日本人にとってスカーフは、「ここはハレの場でございますのよ」というシンボルなのかもしれない。

スカーフについては一つ仮説がある。どこの国でも、女性の正装というのはヒラヒラしているものである。しかしスチュワーデスや売り子がヒラヒラした格好では仕事がしにくい。服装は機能的にしなければならぬ。そこで、ヒラヒラ感を演出するためにスカーフを身に着ける。そういうことなのではないか。

2011/09/03/Sat.

昔考えた人物設定——というか駄洒落——を思い出したので書いておく。

絵画教室九回目。

今回からは、水彩絵具を使って色彩を学んでいくのだという。教室経由で購入した絵具は holbein のもので、色の名前も「クリムソンレーキ」「バーントシェンナ」など、いかにもな雰囲気を醸し出していてテンションが上がる。色名には魅力的なものが多い。馬鹿馬鹿しい感想だが、何やら専門的な印象さえある。

チューブから出した絵具を水で溶き、画用紙に塗っていく。どのような色であるのか、それが水加減でどう変化するのかを実感するためである。絵具の薄め具合が難しい。

二十四色を塗りたくり、本日は終了。次回は単色で簡単な絵を描くらしい。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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