- Diary 2011/08

2011/08/20/Sat.

絵画教室

絵画教室八回目。四枚目のデッサンの三回目。モチーフは、パプリカとジャガイモと茄子(いずれも模型)。

残っていたパプリカを描き終えてデッサンを完成させた。都合四枚を描き上げたので、デッサン課程もこれにて終了となる。次回は水彩絵具を用いて色彩を学ぶのだという。それを終えたら、いよいよ油絵である。

夜は居酒屋で晩餐。ようやく鱧を食べることができた。

読書日記

読了した書名を掲げて評に代える。

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過去の絵画教室

2011/08/12/Fri.

shuraba.com の語源は「修羅場」だが、これは本来シュラジョウと読むのが正しい。シュラバと読むようになった経緯は知らぬ。が、シュラジョウの語感の悪さがほぼ唯一の理由であるに違いない。日本語において発音の問題は重要である。

「新た」はアラタと読む。だから「新しい」もアラタシイと読んでいたが、発音しにくいのでアタラシイに変化した。実用は語義に勝る。

「独壇場」(ドクダンジョウ)は「独擅場」(ドクセンジョウ)の「書き間違い」であるとされるが、私はこの説を信じない。ドクセンジョウは言いにくく、ドクダンジョウは言いやすい。恐らくこちらが先で、文字の誤り云々は後付けであろう。

「ああ杉原(すぎはら)ですか、あの爺さんも達者ですね」

「スギハラではない、スイハラさ。御前はよく間違ばかり云って困る。他人の姓名を取り違えるのは失礼だ。よく気をつけんといけない」

「だって杉原とかいてあるじゃありませんか」

「杉原と書いてスイハラと読むのさ」

「妙ですね」

「なに妙な事があるものか。名目読みと云って昔からある事さ。蚯蚓を和名でミミズと云う。あれは目見ずの名目よみで。蝦蟆の事をカイルと云うのと同じ事さ」

「へえ、驚ろいたな」

「蝦蟆を打ち殺すと仰向きにカエル。それを名目読みにカイルと云う。透垣(すきがき)をスイガキ、茎立(くきたち)をククタチ、皆同じ事だ。杉原をスギハラなどと云うのは田舎ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」

(夏目漱石『吾輩は猫である』[カナは引用者])

これを読んでも名目読みの意義がわからぬ(メミズに限ってはミミズの方が発音しやすいが)。「田舎ものの言葉さ。少し気を付けないと人に笑われる」という台詞が示しているように、悪い意味での貴族趣味、ジャーゴンの一種であろう。

検索してみると、ジャーゴンについては、二〇〇五年二〇〇八年に全く同じ「Jargon」という表題の日記を書いている。私は三年ごとに隠語について語りたくなるらしい。

2011/08/06/Sat.

絵画教室

絵画教室七回目。四枚目のデッサンの二回目。モチーフは、パプリカとジャガイモと茄子(いずれも模型)。

前回までに茄子を描き終え、今日はジャガイモを描くところから始める。既に描いたトマトや茄子といったツルツルしたモノとは違い、matte なジャガイモの質感は表現が難しい。どうにも光沢があるようにしか描けず、レモンみたくなってしまう。モデルのジャガイモは実物ではなく模型なので、実際に若干の光沢があるあたりが悩ましい。アシスタント嬢のアドバイスを受け、何とかそれらしく仕上げる。

次回でパプリカを描き終えれば、四枚目のデッサンが完成する。その後は待望の油絵に進んでも良いし、もう少しデッサンの勉強をしても良いことになっている。さてどうするか。よく考えねばならぬ。

夜はタイ料理屋で晩餐。

読書日記

読書は楽しく、書評は面倒である。したがって読書は進み、書評は溜まる。最近読破した書の名を挙げ、評に変える。

『三億円事件』が大変面白く、他の一橋作品も入手しようとしたが、大半が絶版となっている。Amazon で古本を手に入れ、一気に読了したが、いずれも非常に興味深い労作であっただけに、何故にこれらの著作が絶版となっているのか理解に苦しむ。新潮社は何を考えているのか。

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