- 『完全なる報復』『十三人の刺客』

2011/07/18/Mon.『完全なる報復』『十三人の刺客』

レンタル DVD で『完全なる報復』『十三人の刺客』を観た。面白かったが、それだけともいえる。そんなことは観る前からわかっていて、これらの作品に限った話でもない。映画を観るときは暇潰しと割り切っているので、退屈さえしなければ上出来と思っている。

なぜ映画に期待ができないのかといえば、尖った作品がほとんどないからである。なぜ作品が尖らないのかといえば、多数の観客を動員するために最大公約数的なストーリーや映像しか使えないからである。なぜ多数の観客を動員しなければならないのかといえば、制作や配給に費やした膨大な金額を回収せねばならないからである。なぜ多額の金銭を要するのかといえば、撮影に時間と人手が必要だからである。

これでは、基本的に個人の作品である小説や漫画に、尖り具合で勝てるはずがない。

映画の原作に小説や漫画がよく使われるのは、ひょっとしたら上記のような理屈が関係しているのかもしれない。監督は尖った作品が撮りたいと思う。しかしオリジナルの尖った作品ではヒットするかどうかわからない。それでは金も人も集まらぬ。そこで——、自分が撮りたいと思う尖り方をしている小説や漫画を拝借する。原作があるということで、資金と観客は集めやすくなる。原作に対する最低限の義務を果たせば、残りの部分は自分のやりたいことをやればよろしい。そんなところではないか。知らないけど。

映画の撮影・編集・CG・配信については、PC を始めとするデジタル機材とインターネットの進歩によって、個人でも充分に実現できるようになった。映画を尖らせるにあたってのボトルネックは、演者とロケ資金だろう。演者については、その内に安く調達できるようになるかもしれない。声だけなら、声優志望者などに安価で発注することが今でも可能である。ネット声優が存在するなら、ネット俳優も出てくるだろう(もう誕生しているのかもしれない)。

流通している映画には色々と不満があるが、それは可能性が活かされ切れていない(ように思える)からである。上述のように、演者にさえ拘らなければ、もっと様々な展望があるような気がしてならない。演者がどうでも良い映画なんて!という意見もあるだろうが、文章がマズい小説や、絵が下手糞な漫画——それでいて面白く、売れている——は沢山ある。

日本のテレビは間もなく崩壊するだろうが、在野やアマチュアが活性化する良い機会になると期待している。