- Diary 2011/07

2011/07/24/Sun.

今月二十日で三十一歳になった。特に感慨はない。研究室では誕生日を迎えた人に花を贈る行事があり、私も美しい花束を頂いた。玄関に飾った花を見るたびに、名前を調べなきゃなあと思っていたが、その前に枯れてしまった。

誕生日には——これは狙ったわけではないが——待望のエアコンも設置され、我が家も快適になった。これで絵が描ける、読書も捗る、サイトの更新頻度も上げよう、などと気分も高揚する。しかし涼しくなった書斎で実行したのは、豚カツの話を書いたことくらいである。これではいけない。忙しいと言うのは簡単だが、しょせん言い訳である。

……これも奇妙な話で、そもそも私は、いったい誰に対して弁解しようとしているのか。不思議である。誰かに詰られたわけでもないのに、私は言い訳をしようとしている。私に圧力をかけている主体は何か。それを「空気」というのかもしれぬ。

「空気」の概念を提出したのは山本七平である。今週は彼の『徳川家康』を読んでいた。すこぶる面白い。家康の内面に鋭く踏み込んだ洞察がリアルである。もちろん実在の家康など誰も知らないのだが、「家康ってこんな男だったのか」と思わせる力がこの評伝にはある。家康の伝記は腐るほどあるが、山本の『徳川家康』は着眼点が新鮮なので倦むことがない。

『徳川家康』を読んでいると『信長の野望』がプレイしたくなる。とうとう今日は「烈風伝」のディスクを引っ張り出し、家康が私淑したという毛利元就で尼子家と激闘を繰り広げてしまった。こんなことをしているから時間がなくなるのである。閑中自ずから忙あり。そう言ったのは『吾輩は猫である』の迷亭先生だが、彼は今でいう高学歴ニートのようなもので、その人物像を描いた漱石の先見性には驚かされる。もっとも、単に歴史が繰り返されているだけという可能性もある。

まとまりのない話になってしまったが、「まとまりがある」というのは「結論が予測できる」ということでもあって、面白味に欠けることもしばしばである。多くの錯視が示すように、脳は常に情報を「まとめよう」とする。特に考えなくとも、文章などは自然とまとまってしまう。そこを敢えて散らすから散文というのだろう。これが意外に難しい。もっと散らしたいと常々思っている。

2011/07/23/Sat.

自分でも奇妙に思うイメージ、特定の行為のたびに必ず想起するイメージというものがある。誰にでもあろう。

骨格筋の研究をしていた頃である。「骨格筋細胞の 40% は筋繊維である」「筋繊維の 40% はミオシンである」といった知識を教科書で得た。ということは——、筋細胞の 40% × 40% = 16% はミオシンである。16% ≈ 1/6 だから、一枚の豚カツの中には、およそ一切れ分のミオシンが含まれているはずである。そんなことを考えた。考えてしまった。

それからというもの、豚カツを食べるたびにミオシンを思い浮かべてしまう。焼肉やステーキのときには何も思わない。あくまで豚カツなのであり、実にその点が不思議である。

筋組織の全てが筋細胞なのではない。筋肉には血管があり脂肪があり繊維がある。したがって「一切れ分のミオシン」は過大評価であろう。そもそも、40% なり 16% という数字が、体積比なのか分子数の比なのかも知らない。常識的に考えて質量比であろうが、豚カツばかりが気になって、そんな簡単なことを調べる前に研究テーマが変わってしまった。それでも豚カツのことだけは覚えているのだから始末に悪い。一生忘れないのではないか。

話は逸れるが、骨格筋の研究が早い時期から進んだのは、上述したように、大量のタンパク質が比較的容易に精製できたからである。研究しやすい分野から研究は進む。モデル生物も同じである。その生物は単に飼育しやすかったり、繁殖しやすかっただけなのかもしれない。生物の典型として適しているかどうかは、また別問題である。過去の蓄積があると、どうも錯覚しやすい。

研究者は、自分が研究したいことを研究しているということになっている。しかし半分は嘘である。実際には、研究できることしか研究できないからである。

2011/07/18/Mon.

レンタル DVD で『完全なる報復』『十三人の刺客』を観た。面白かったが、それだけともいえる。そんなことは観る前からわかっていて、これらの作品に限った話でもない。映画を観るときは暇潰しと割り切っているので、退屈さえしなければ上出来と思っている。

なぜ映画に期待ができないのかといえば、尖った作品がほとんどないからである。なぜ作品が尖らないのかといえば、多数の観客を動員するために最大公約数的なストーリーや映像しか使えないからである。なぜ多数の観客を動員しなければならないのかといえば、制作や配給に費やした膨大な金額を回収せねばならないからである。なぜ多額の金銭を要するのかといえば、撮影に時間と人手が必要だからである。

これでは、基本的に個人の作品である小説や漫画に、尖り具合で勝てるはずがない。

映画の原作に小説や漫画がよく使われるのは、ひょっとしたら上記のような理屈が関係しているのかもしれない。監督は尖った作品が撮りたいと思う。しかしオリジナルの尖った作品ではヒットするかどうかわからない。それでは金も人も集まらぬ。そこで——、自分が撮りたいと思う尖り方をしている小説や漫画を拝借する。原作があるということで、資金と観客は集めやすくなる。原作に対する最低限の義務を果たせば、残りの部分は自分のやりたいことをやればよろしい。そんなところではないか。知らないけど。

映画の撮影・編集・CG・配信については、PC を始めとするデジタル機材とインターネットの進歩によって、個人でも充分に実現できるようになった。映画を尖らせるにあたってのボトルネックは、演者とロケ資金だろう。演者については、その内に安く調達できるようになるかもしれない。声だけなら、声優志望者などに安価で発注することが今でも可能である。ネット声優が存在するなら、ネット俳優も出てくるだろう(もう誕生しているのかもしれない)。

流通している映画には色々と不満があるが、それは可能性が活かされ切れていない(ように思える)からである。上述のように、演者にさえ拘らなければ、もっと様々な展望があるような気がしてならない。演者がどうでも良い映画なんて!という意見もあるだろうが、文章がマズい小説や、絵が下手糞な漫画——それでいて面白く、売れている——は沢山ある。

日本のテレビは間もなく崩壊するだろうが、在野やアマチュアが活性化する良い機会になると期待している。

2011/07/16/Sat.

絵画教室六回目。四枚目のデッサンを始める。モチーフは、パプリカとジャガイモと茄子(いずれも模型)。

デッサンスケールを用いながら構図を取る。途中で、アシスタント嬢にモチーフの位置を修正される。「コレとコレ、もっと間隔が開いてませんか?」。確かにそうかもしれないが、そもそも彼女と私とでは身長が異なるので、同じ椅子に座ってもモチーフの見え方は違うはずである。

この種の疑問——というより、それ以前の問題である対照の取り方——には、ほとんど無条件に反射してしまう。この反応を喉の奥でグッと押さえることが、社会生活を送る上では肝要である。普通の人々は対照をもって比較することに慣れていない。指摘したところで「細かいヤツ」を思われるのがオチである。

アシスタント嬢が、「掃除をするとテーブルの位置が毎回、微妙にズレちゃうんですよねー」と言ったときも、それなら床に印でも付けておけよと思ったが黙っていた。

——そう書くと、私が怒っているように読めるかもしれぬ。しかし別に怒ってはいない。気になるだけである。だが絵画教室はラボではない。私は楽しく絵を描くために時間を割いて来ている。対照だの比較だの、そんなことはどうでも良いのである。

これは決して強弁ではない。例えば、時々刻々と変化する風景や動物や植物を描くときには、何をもって対照とするのか。そんなことを考えていては、少しも筆が進まないだろう。そこでシャッターを切るのは簡単だが、私が「見た」ものが必ずしも写真に映っているわけではない。私は私に見えたものを描くしかない。

夜はヴェトナム料理屋で晩餐。

関連

過去の絵画教室

2011/07/02/Sat.

絵画教室五回目。三枚目のデッサンの三回目でもある。

モチーフはトイレットペーパーとトマト(の模型)で、既に前者を描き終え、後者も大体の形が取れている状態からの再開。今日はトマトのツヤツヤとした質感、ヘタに近付くほど黄色くなる色調を表現するべく力を注ぐ。概ね満足できたところでヘタを描き、全体の調子を整える。思っていたよりも上手く描けた。机に落ちる影を加えて完成。

夜は豆富屋で晩餐。

関連

過去の絵画教室

2011/07/01/Fri.

水曜の夜は、六月末で転職される室長の送別会が催された。獣医師である彼には動物実験を中心に大変お世話になった。僅々三ヶ月でお別れしなければならないのは大変残念である。

話を変える。

「私が科学の限界を指摘できるのは、私が科学より広い世界を認識しているからに他ならない」。この logic は様々な事柄に適用できる。例えば「私が自己を啓発できるのは、私が自己より広い『私』を認識しているからに他ならない」など。これは一種の方便ではあるのだが、なかなか使い勝手が良いので愛用している。

「私が○○より広い世界を認識しているからに他ならない」という仮定は、私の内に、言語化されてはいないが既に「知っている」理論が存在することを示唆する。例えば勘がそうである。注意深い思索によって、これらを言語化することができるかもしれない。その際に活躍するのが自分言語であることは既に述べた。

しかし、そのようにして抽出された理論を他者に伝達しようとすると、しばしば摩擦が生じる。

科学でも自己啓発でも、その限界や是非についての議論は、つまるところ境界論争である。「どこまで言語化されているか」「どこまで言語化し得るか」——、問題はこの点に尽きている。この手の話題が大体において不毛であるのは、互いに勝手な自分言語を使い、しかもそれが相手に通じると錯覚しているからである。

我々にできるのは、他者に何かを伝達することではなく、他者に受容される可能性を期待しつつ自分言語によって表現することのみである。我々は、他者が既にその深層で「知っている」ことしか伝えられない。

果たしてそれは伝達といえるのだろうか。然り。Receptor を持つ細胞だけが ligand の信号を解する(そして介する)。このような文脈では、伝達(transmission)と選択(selection)はほぼ同義である

作家は読者を選び、読者は作家を選ぶ。古くから言われているこの文句は、その事実を端的に表している。