- Diary 2011/06

2011/06/28/Tue.

ムスコ・ムスメという一対の言葉があるが、ムスメには「娘」という文字が存在するのに対し、ムスコは「息子」と二文字で書く。どうも気持ちが悪い。

また、ムスメを丁寧に言えば「息女」となるが、これに対応するのは「子息」であって「息子」ではない。これも気持ち悪い。

どうしてこうなったと怒っても仕方がない。話を変える。

天皇の諡号は基本的に二文字で、一時期流行していた「後○○」を除けば、例外は土御門と正親町と中御門しかない。

漢字の総数は約十万文字といったところである。したがって可能な二文字の組み合わせは 1062 = 1012 = 一兆種類となる。天皇の平均在位が三十年とすれば三十兆年間は諡号に困ることがない。

『宇宙のエンドゲーム』によれば、この頃には宇宙に存在する全ての星が消えていく。

こうした全ての複雑な状況を考慮に入れても、数兆年のうちに銀河のガス供給は枯渇するだろう。宇宙が宇宙年で「十四歳」の誕生日を迎えた時(百兆年たった時)、実質的に、銀河の伝統的な星の製造は、ゆっくり停止するだろう。

フレッド・アダムス/グレッグ・ラフリン『宇宙のエンドゲーム』第2章「星たちが輝く時代」

皇統よ永遠なれ!

ところで、一兆種類の組み合わせには全ての二次熟語が含まれている。つまり牛肉天皇や原爆天皇が存在するはずである。

これ以上続けると不敬になるので一般化するが、もっとユニークな称号を持つ最高権力者がいたら面白いのにと思う。歴史を繙いてもファンタジーを読んでも、出てくるのは獅子王や雷帝といった威勢の良い名前ばかりである。これではつまらない。例えばフェティッシュな皇帝が「靴下王」とでも称すれば、大変なインパクトとともに——そして彼が切望したように——、広く歴史に名を残すことになるだろう。

しかし……、これはどこかで見た風景ではある。筒井康隆の『虚構船団』ではないか。この作品には鼬の王朝が登場するのだが、王にはそれぞれ独特の呼称が与えられている。曰く、反撃王、追放王、肥満王、城壁王、催眠王、無名王、射精王、改宗王、隻腕王、大砲王、爆笑王、恐怖王、血笑王、殺戮王、盲目王。

既にやられていることではないか。つまらん。

2011/06/27/Mon.

直立二足歩行する人間において、心室は下(脚側)にあり心房は上(頭側)にある。では、一般的な四足歩行の哺乳類ではどうか。やはり心室が下(腹側)で心房は上(背側)なのだろうか(心室の方が重いから不思議ではない)。それとも心室が後(尾側)で心房は前(頭側)なのだろうか(こちらの方が自然な気もする)。

マウスの心臓は幾つも見てきたが、解剖でも心エコーでも、それは全て麻酔下における仰向けの状態でのことである。歩行中のマウスの心臓が胸腔内でどのような位置を占めているかについては全く知らない。周囲の人間に尋ねてみたが、誰も正確なところを知らぬ。

他にも疑問はある。

母なる海に別れを告げた魚類が、両生類以降の陸上脊椎動物へ進化したといわれる。魚類の骨格を見ると、一つの椎骨から腹側と背側へと一対の肋骨が伸びている。一方、陸上脊椎動物では、椎骨から左右に肋骨が生じている。問題は、魚類の腹-背の肋骨はそれぞれ、陸上脊椎動物の左-右の肋骨どちらと対応しているのかということである。

一般的に、腹-背は非対称であるが、左-右は対称である。したがって肋骨の進化は、単なる位置の移動ではなく、発生学的に質的な変化を伴っていると思われる。

上の段落とは逆説的になるが、左右対称であるなら、論理的には、腹側の肋骨が右の肋骨になろうと左の肋骨になろうと、どちらでも良かったはずである。

哺乳類の左右は基本的に対称であるが、非対称な配置を取る臓器もある。例えば心臓は左に片寄っており、肝臓は右にある。仮に、この配置が全ての陸上脊椎動物に共通しているなら、それは最初に「体を捻った」一匹の魚の影響が残った結果ということになる。

もっとも、内臓における左右の非対称性は絶対的なものではない。内臓逆位といって、臓器の配置が正反対になる場合がある(個々の臓器に機能的な問題はない)。私はラットで一度だけ見たことがある(ラットの内臓写真)。内臓逆位が頻発する病気や変異体も知られている。これらのケースでは、左(右)を左(右)とする機構が弱まっているため、左右の別が無作為に決まると考えられている。左右の非対称性はその程度のもの、ともいえる。

左右(より正確にいえば鏡像)は本質的に区別できない、よってその選択には偶然が働く——。そんな例は他にもある。生物は L-型アミノ酸しか利用しない。この事実に対する合理的な説明は今のところない。

左右の定義は哲学・言語学上の古典的な大問題でもある。言語のみで左右を峻別する手段は存在しないともいわれる。すなわち左右は視覚的な認識によって成立する概念であって……、と考え始めたら面白くなってくる。鏡をモチーフにした騙し絵などは、このような左右の性質を利用している。あるいは、左右を上手く活用した小説は書けないものだろうかと妄想することもできよう。まだまだ掘り下げられていない題材が存在しそうである。

2011/06/26/Sun.

急に暑くなってきた。新しい我家にはエアコンが設置されておらず、扇風機もないので、昨夜は室内の熱気に往生した。ビールを飲んでも汗が出るだけ、窓を開けても入ってくるのは羽虫の類ばかりである。

清少納言は「夏は夜」と書いたが、私なら断然「夏は朝」である。週末ごとにキャンプを張っていたあの頃、山中で迎える早朝、朝露、湿土の匂い、木漏れ日、草木の香り、鳥や虫の声、そして何よりも肌寒いほどの涼しさが、暑い夏の記憶として鮮烈な印象を残している。

……なんてことを、朝からビールを飲みつつ思い出している。だって暑いんだもん。この日記を書き終えたら家電屋に行って、エアコンを物色してくるつもりでいる。堕落したものだ。

話を変える。

昨日はラボに行って実験をしてきた。休日に出勤するのは、この職場ではほぼ初めてのはずである。四月からこれまで、意識的にカレンダー通りの勤務を続けてきた。夜遅くまで残って仕事をこなした日も数えるほどである。この世界で生き残りに賭けるポスドク一年生としては、少々物足りない働き方ではあるだろう。けれども、何年か前に、色々な意味での「そういう義務感」とは訣別しようと決めたのである。

もちろん、これは私個人の考えである。誰に奨めようとも思わぬし、他人の生き方を否定するつもりもない。

先月、Dr. H と会った際、「研究命、っていう人は辛いよね」という話が出た。この文句には様々な含意がある。捉え方は人によって変わるだろう。

書きたいことは沢山あるが、自分の生き方にすら自信が持てないので、これ以上の言及は避ける。しかし祈らずにはおられない。皆が、夏の朝のような爽やかな日々を迎えられんことを。これは、馬鹿馬鹿しくて naive な想いだろうか?

2011/06/22/Wed.

言葉の定義は、物事を理解するための最も重要で基礎的な作業である。思考は言語を基盤として展開されるから、当然ではある。

私の仕事の関係では、例えば「生命」「生物」「病気」といった単語はよく定義されていない。一体これらの言葉が何を指しているのか、わかっているようで実はわかっていない。だからこそ研究する意味があるともいえる。

ある思考がその人にとってのみ有効(個人的な思索など)であるなら、言葉の定義は恣意的なものでも構わない。己の思惟を前進させるための自分言語である。詩的表現はその典型だが、これは何も特別なものではない。極端にいえば、意識的・無意識的に関わらず、全ての人が自分言語を有し、操っている。日本人の数だけ日本語があるといっても良い。大抵の場合、これらの多くは互いに重なり合っているので、特に問題なく意思を伝達することができる。あるいはそう錯覚している。

定義ゲームは私にとっての日常的な娯楽である。思いもかけない簡単な単語の定義が意外と困難であったりする事実を発見するのが楽しい。

2011/06/19/Sun.

東北に嫁いだ妹が、友人の結婚式で帰省しているという。貴重な機会なので、大阪で待ち合わせて一緒に食事をしてきた。色々な話をしながら、しゃぶしゃぶとうどんすきに舌鼓を打ち、茶を呑んで解散。元気そうで何よりだった。

2011/06/18/Sat.

絵画教室四回目。三枚目のデッサンの二回目でもある。

モチーフはトイレットペーパーとトマト(の模型)だが、既に前者はやっつけているので、今日はトマトを描き込んだ。トマトは思った以上にデコボコしており、それを表現しようと一所懸命になっていると、いつの間にやら凹凸を強調し過ぎて襞のようになってしまった。アシスタント嬢に少し手を加えてもらって軌道修正し、どうやらトマトらしくなったところで本日は終了。

あとはヘタを描けばトマトの形は完成するが、問題は色合いである。ヘタに近いほど黄色くなるわけだが、黒い鉛筆だけで色の違いを表現するのは初めての課題である。モノクロームで陰影と同時に色彩を表現することができるのか——、臆することなく挑戦したい。

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過去の絵画教室

2011/06/15/Wed.

前置きもなく冒頭から本題に斬り込んでいく文章構成のことを、私は勝手に「ガリア方式」ないし「カエサル方式」と名付けている。ユリウス・カエサル『ガリア戦記』がまさにそのように書き出されているからである。

ガリアは全部で三つにわかれ、その一にはベルガエ人、二にはアクィーターニー人、三にはその仲間の言葉でケルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。どれも互に言葉と制度と法律が違う。ガリー人はガルンナ河でアクィーターニー人から、マトロナ河とセークァナ河でベルガエ人からわかれる。なかで最も強いのはベルガエ人であるが、その人々はプローウィンキアの文化教養から遠くはなれているし、商人もめったにゆききしないから心を軟弱にするものが入らないのと、レーヌス河のむこうのゲルマーニー人に近いのでそれと絶えず戦っているためである。同じ理由でヘルウェティー族も他のガリー人にくらべれば武勇がすぐれ、毎日のようにゲルマーニー人と争い、自分の領地で敵を防いだり、敵の領地に入って戦ったりしている。

(ユリウス・カエサル『ガリア戦記』)

ガリア方式を実践するのは非常に難しい。文章には目的があり意図があり理由がある、書く者には動機があり欲望があり思惑がある。これら一切を出さずに文章を綴るのは大変な精神力を要する。これは一種のサービス精神ではないかとも思うのだが、しかしその神髄にはいまだ触れたことがない。

関西人にとってサービス精神とは、自己を隠蔽することではなく、むしろ徹底して晒し、貶め、他者を立てるために発揮されるものである(気取り屋が関西で嫌われる所以である)。何事につけ過剰をサービスと心得る関西人には、ガリア方式は極めて習得が困難な手法かもしれぬ。

2011/06/12/Sun.

職場の方の結婚式に参列してきた。

帰宅の途上で Mac mini とキーボードを購入した。夜までに、壊れかけの iBook からデータを移し、諸々の update を行ってセットアップを済ませることができた。主な変更点は以下の通り。

iBook/OS X 10.4 でも特に不満がなかったので、変更は必要最小限に留めた。私がシステムに求めるのは安定性と継続性であり、数年前からは、Mac を使うことにも特に積極的な意味を見出していない。私が本当に欲しいのは、昨日まで使っていたのと同一のシステムである。しかしそれは無理な話だから、似たようなもので我慢するしかない。それだけのことである。

一方、ハードウェアを刷新することで処理速度が向上したり、画面が広くなったりするのは単純に快適で、喜ばしいことである。今や、コンピュータを買い替える理由のほとんどがこの点にあるといって良い。ハードはどんどん進化しているし、またするべきである。

ソフトウェアの悩ましいところは、バージョンアップが必ず進歩を伴っているとは限らないことである。新しい機能、新しい外観——、それらの内の一体どれだけが真に必要とされているのだろうか。

昔々……、コンピュータは非常に高価であった。一台の高額なマシンを様々の用途に供するため、ユーザはそれぞれの目的に応じてソフトを組んだ。現在の状況は全くの逆である。ユーザの大多数は自らプログラムを書くこともなく、他者が提供するソフトをただ使うだけの存在になり下がった。反対に、ハードは高性能かつ安価になり、ユーザは目的に応じたマシンを柔軟に構成できるようになった。

これでは、どちらがハードでどちらがソフトなのかわからぬ。例えば PC ゲーマーは、ソフトを動かすためにハードを組み替えるのが常である。

ところで私は、二〇〇二年に発売された Adobe GoLive 6.0 というアプリケーションでこの日記を書き続けている。十年前の恐ろしく古臭いソフトであるが、私に必要な機能を過不足なく提供してくれている。今回、彼が動かなくなることを恐れながら OS を更新したわけだが、幸いにも杞憂に終わった。向こう三年間——現職の任期中——は、まず安泰であろう。

2011/06/11/Sat.

書斎の改革に乗り出した。

引っ越しを機に大きな机を購入したものの、その天板は液晶テレビ、iBook、ノート PC に占拠されており、広さが全く活かされていない。机でも絵を描きたいのだが、その余裕がないのは悲しいことである。

そこで今日は、机の奥に棚を設置し、液晶テレビをそこへ追いやった。また、以前より iBook が異常をきたしていたので、これも買い替えることに決めた。Mac mini を液晶テレビに接続すれば無駄もなく、かなりの面積を解放できる。机上に残るのはノート PC だけになるから、大判のスケッチブックを開くこともできるだろう。楽しみである。

明日は大阪に出かける予定があるので、ついでに Mac を検分してくるつもりでいる。

2011/06/06/Mon.

"Less is more" いう標語が希求しているのは結局のところ "more" なのであって、no more な人間にとってはつまるところ less でも何でもない。

機能美という観点からいえば、全ての装飾的な design は不要で不純で余計であり、この考えを突き詰めていくと "less is more" という言葉すら五月蝿く感じられる。大体、説明している時点で既に矛盾している。

自然物と機能美には密接な関係がある。私は心臓の造形を大変美しいと思うが、百合だの薔薇だのには大した感興を覚えぬ。これらの花は何百年にも渡る人為的な交配の末に生まれたもので、とても「自然」のものとは言えぬ——少なくとも自然淘汰を経ていない。

人工物の機能美は物理法則に従うことで発揮される。例えば流線型がそうである。最大効率を求めることで、自ずから美が顕現する。

……ということを考えていくと、どうも美というものは単体で存在するわけではないらしいことが見えてくる。すなわち、美は論理や構造や機能を持つ——あるいはそれらの裏面である。そういう仮説である。次に行うべきは、定性的でも良いから、その検証可能性を考えることであろう。例えば、美的評価と機能評価を紐付けるなど。

機能美が存在するなら、美機能があってもおかしくない。美しい機能とは何であろうか。それを考えるのもまた楽しい。

2011/06/04/Sat.

絵画教室

絵画教室三回目。三枚目となるデッサンのモチーフは、トイレットペーパーとトマト(の模型)。

例のごとくデッサンスケールで簡単に輪郭を取り、トイレットペーパーから描き込んでいく。まずは穴の開いた円筒を仕上げ、それから不必要な部分を消し、紙の出口となる部分を描き加える。練り消しでタッチを大胆に消していくのはなかなか愉快である。

トイレットペーパーらしくなってきたところで本日は終了となった。トマトには全く手を付けていない。絵具なら全体的に少しずつ色を乗せていくのだと思うが、デッサンはまた違うのだろうか。それとも初心者向けの配慮なのか。不明である。

これまでの六角錐や円柱に比べ、やや描き甲斐のあるモチーフとなったため、より集中してスケッチブックに向かうことができた。二時間など瞬く間である。

太刀魚と丸十

夜は天麩羅屋に行った。

太刀魚というのはよく焼いて皮や身がカリカリパサパサになったくらいのところに醤油をかけて喰うのが美味いのだとばかり思っていたが、この店で出てきた太刀魚の天麩羅は非常に瑞々しくて柔らかく、一口食べても何の魚か判別できぬくらいであった。もちろん美味である。三十歳になって己の太刀魚観が変わるとは想像もしていなかった。やはり食事に金を惜しんではならぬ。

「丸十」(まるじゅう)という言葉が薩摩芋を指すことも知った。

薩摩芋は、日本料理の献立に「丸十(まるじゅう)」と書かれることがある。これは、薩摩藩島津氏の家紋が丸に十字であることが由来だとされている。

サツマイモ - Wikipedia

勝手に隠語を作って粋がるのは悪しき似非貴族趣味であり、「丸十」にもその気配を感じる(そもそも薩摩芋を隠語で呼ばねばならぬ状況が想定できない)。知識としては面白いが、実際に使う機会はないだろう。

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