- 寂しい人に

2011/05/04/Wed.寂しい人に

デッサンをするようになってから絵について考えることが増えた。といっても、絵を描く目的の一つが「言語系・聴覚系への依存が少ない世界の理解の仕方」の習得なので、「何世紀の画家である某の技法は云々」といった(いかにも僕が好みそうな)知識には最初から触れずにいる。僕が想っているのは、もっと漠然としたことだ。

一つは、絵を描くときに想定するべき対象者についてである。文章を書く際には読者を想像する。しかし今のところ、「自分の絵を見る人」については何のイメージもない。架空の鑑賞者を持つか否かで、文章も絵画も上達の度合いが大きく違ってくると思うが、ではさて、僕はどんな人に僕の絵を見てもらいたいのだろう。

宮部みゆきの文章だったか、松本清張の功績を称えて、「多数の作品によって大勢の人の寂しい夜を慰めた」という意の名文がある。清張作品に登場する人物の多くは、弱く、哀しく、悩みと怒りと嫉みを抱えていた。彼らが紡ぐ物語は、同じ感情を胸に秘める沢山の読者の共感を呼んだ。

それでも……、と思わずにはいられない。多忙な人がその寂寥を紛らわすには、読書という手段はいかにも時間が掛かる。そもそも忙しいがために哀しみを抱えざるを得なかった、という人々も(特にこの国には)大勢いるだろう。彼らの手に書物は重た過ぎるのではないか。

その点、絵の観賞は気軽なものである。文字通り「一目で」見ることができる。「なかなか良い」「いまいち」といった感想が、考えるまでもなく湧いてくる。そして、それで充分である。

「逐次的あるいは経時的な理解を私に強制する」聴覚系の学芸(学問、文芸、音楽、演劇、映画)、それに食事、運動、性交といった肉体的な快楽は時間の流れを要求する。しかし絵画(と写真)だけは、瞬間的な観賞と感動を提供し得る。この事実はもっと強調されて良い。

絵画において「鑑賞に堪える」というのは、じっくり視られてもボロが出ないという意味では恐らくない。むしろ逆で、刹那的な一瞥に対してすら衝撃を与える力のことを指すのではないか。

寂しさを抱えた誰かの鑑賞に堪え得る絵が描けたら、それは素晴らしいことだと思う。