- Diary 2010/11

2010/11/25/Thu.

学位申請の書類を事務に提出した。大部の書類を調えるのは面倒だったが、手続きに滞りがなかったのは幸いであった。

一般的に、本質を求める研究者は、形式を重んじる事務や役人と相性が悪い。

以下の段落は、どこかの blog(残念ながら失念した)の記述に、幾分の脚色を加えたものである。

事務が、いわゆる仕事だと錯覚するから研究者は腹が立つのである。しかし実のところ、事務は仕事ではない。茶道や華道のような「事務道」なのである。小笠原流か今出川流か知らぬが、静かな部屋で全員が作法に則って動き、名物拝見よろしく、Word で綺麗に枠取りされた書類を眺め回しては、「結構な書類でございました」とやっておる——。そう思えば、一々怒るのも馬鹿らしい。

一読爆笑したことを覚えている。「事務道」という把握は、本質の一部を突いているように思う。

ところで、女性事務員が着用している、あの珍妙な制服にはどういう意味があるのだろう。あの服には、二十一世紀になってもしぶとく生き残る「昭和」を感じる。窓口や受付といった業務であれば、制服であることにも意義があろう。しかし、建物の奥深くに鎮座し、内部の人間しか出入りできないような事務室であの服を身に纏う必要はあるのか。全くの謎である。

あの服装を維持するために費やされる金額は、全国で年間どれくらいになるのだろうか。そう考えると、あれは何かの利権ではないかとすら思えてくる。こういった訳のわからぬものを一つ一つ血祭りに上げていくことが、ひいてはこの社会を健全なものにすると思うのだが、なかなか上手くいかぬようである。——そもそも、あの制服を廃止するとして、いったい誰がその権限を有しているのだろう? まこと複雑怪奇である。

(余談だが、あのユニフォームは未婚の若い女性が着ることを前提としてデザインされている。「昭和」の世界では、全ての女性はいずれ結婚し、そして結婚と同時に退職するからである。現代において、この誤った仮定が周囲に甚大な被害を及ぼしていることは論を俟たない)

非合理的なものを否定しているわけではない。司馬遼太郎流にいえば、文化とは非合理的なものである。畳に膝を折り、両手を添えて襖を開閉することは、こと通行に限っていえば合理的ではない。けれども、そこに理はある。言語化されてはいないが、一貫した理が存在する。ゆえに文化として成立する。

制服を含む事務道が文化であるかどうかは知らぬ。確かに文化であった時期が存在したかもしれぬ。しかし、今はどうであろう。理があるのなら、是非示してほしいと思う。

2010/11/19/Fri.

「起こるべき事柄は起こるべくして起こ」る世界において、「これまでに存在した事象の総体こそが自然」であるとするなら、これはいわゆるニュートン的で古典的な世界観・自然観ともいえる。

一方で現代の物理学は、全ての事象は不確定で確率的にしか観測できないと説く。一般的に、これは古典的な世界像と対立するものとして捉えられているように思う。

「不確定」「確率的」の意味するところが、ある範囲でいかなる値をも取り得る=連続的である=選択肢は無限である、というのなら、それは正しいかもしれない。しかしこの世界が、例えばプランク単位系のような何らかの単位によって区切られる時空間であるのなら、宇宙は非連続的であり、選択肢は有限となる。時空間の全ての点を座標で指定することができるからである。各点で起きる事象が離散的であれば、全ての可能性を「考える」ことは不可能ではない。

この場合、有限個の多元宇宙において、起こるべき事柄は起こるべくして起こる。

無論、ただの妄想である。

2010/11/15/Mon.

論文の投稿や研究費の申請で、色々な先生から署名捺印を頂戴する機会がある。高名な方にお願いのメールを送るときには随分と緊張したりもするのだが、さぞ多忙であろうと想像される人物であればあるほど、迅速に response を寄越して下さるという傾向がある。こちらは驚くと同時に安堵し——、畏敬の念を新たにする。

これらが何を意味するのかはさておき、彼らの対応の速さは見習うに値する。が、なかなか実践できるものではない。あるメールに素早く返信することは簡単である。だが、「全ての」メールに「いつも」機敏に応答するのは困難である。ややもすれば拙速になりかねない。

このあたりに微妙な絢があるように思う。しかしそれを論理的に展開してしまうと、いかがわしいライフハックに成り下がりそうな予感もある。ならば止めておこう。求められているのは理論ではなく神速である。

兵は神速を尊ぶ

(『三国志』「魏志郭嘉伝」)

ところで、上記の文句は、一読わかりやすいようでいて、実のところその真意が——少なくとも自分には——よくわからない。「将は神速を尊ぶ」ならば理解できる。本歌の『孫子』には「兵は拙速を尊ぶ」とある。これもよくわかる。「兵尊拙速、将尊神速」と並べれば、いかにも古典らしくなるのだが、しかし「兵は神速を尊ぶ」のである。

神速を尊ぶような優れた兵を育成せよ、ということであろうか。これは例えば、戦国時代の織田家が擁した職業兵士を想起させる。尾張の兵は弱いとされていたが、職業兵士ならば、半農半兵にはできない運用(農繁期の出兵)が可能となる。田畑の心配がない専業兵士は、戦場で手柄を立てたいという欲求が強くなる、すなわち自ずと神速を尊ぶようになる……かもしれぬ。

ここまで妄想すると、前段の問題と少しは関連してくるようにも思える。

2010/11/13/Sat.

音楽にはあまり関心がなく、熱心に聴くこともほとんどない。観賞している自分の内的時間を制御できないことが大きな理由である。音楽はその性質として絶対的な時間軸を有しており、鑑賞者はそれに従うしかない。これが不愉快である。

本なら速読も精読も熟読も味読もできる。白眉となる場面で頁を閉じ、目を瞑ってその光景を妄想したり、あるいはそこで展開されている理論に思考を巡らせたり——。これが音楽ではできない。勝手に流れて行き、勝手に終わる。こちらの都合は一切考慮されない。わんこそばのようなものである。口の中に蕎麦が残っている状態で、次の椀を足される。食べたこともないのに断言するが、こんなものが美味いわけがない。

同様の理由で、映像作品も好んで観ることはない。同じ視覚作品でも、漫画やゲームは自分で時間をコントロールできるので大変面白い(FF や MGS で多用されるようなムービーをゲーマーが好まないのは、制御可能な世界に制御不可能な時間が挿入される違和感のためではないか)。

それでも、たまには音楽を聴くこともある。

青春時代——日本で一番 CD が売れていた頃——は、The Beatles にどっぷりとハマっていたので、人生の血肉として吸収した音楽の中に邦楽は含まれていない。そのくせ洋楽好きというわけでもなく、The Beatles 以外はその周辺を少し聴き齧った程度なので、いわゆる pop music についての知識や記憶は何もない。

結局、心の中に残っているのは、ゲーム音楽と子供の頃に観ていたアニメの主題歌が大半である。現在進行形となると、もうゲーム音楽しかない。

ゲーム音楽には幾つかの特徴がある。基本的に BGM であるから、short-repeatable であり endless である。ほぼ全てが instrumental であるから ideologisch ではあり得ない。Impressive ではあるが絶対に noisy ではない。これらの性質は妄想や思索、すなわち自分の観賞態度と合致する。

だから実は、「ゲーム」音楽であることに必然性はない。ゲーム音楽を愛しているのは、ゲームを愛しているからではないのである。事実、クソゲーやプレイしていないゲームの音楽 CD を購入することもある。

MH3(未プレイ)の soundtrack を聴きながら、以上のようなことを考えた。

2010/11/06/Sat.

昨日の日記では、尖閣諸島中国漁船衝突事件のビデオをアップロードした sengoku38 なる人物を、「愛国精神と義憤にかられ、覚悟の上で行動した日本人」と仮定して話を進めた。そのような innocent な想定で事態が進んだ場合の危険性について考えたかったからである。しかし、実際の真相はそれほど単純ではないだろう。

(そもそも「sengoku38 が義憤を抱いている」と考えてしまうのは、他ならぬ我々が尖閣事件に義憤を抱いており、それを彼に投影しているからである。そして、我々の義憤はどこか他人事でもある。我々は政府に期待できないので、義憤を抱くしかなく——と思い込んでおり——、何の運動もしていない。そのことに対して無意識にでも自罰的な感情を有しているから、「sengoku38 の刑を軽く」という言説が早々に漏れるのである)

件のビデオが流出したことによって利益を得たのは誰か。日本政府でもなければ中国でもない。ロシアも台湾も朝鮮半島も、日本人が領土問題に敏感になることを好まない。米国はどうなのか、よくわからない。

自民党や、国内の保守派・右派は、今回の事件を歓迎するだろう。海上保安庁を始め、自衛隊・警察・検察といった組織は基本的に保守であるから、両者の親和性は高い。隣国の脅威が増せば、装備の増強や規制の強化を促す論拠になるといった事情もある。本件で金銭が動いている可能性も否定はできない。

五・一五事件や二・二六事件への連想が働くのも、そういった背景が考えられるからである。これらの事件では、青年将校たちの義憤が軍上層部に利用されたという一面が確かにある。逆に、上層部の思惑が青年将校らに利用されてもいた。混沌とした流れの中で、義憤ではなく野心を抱いて参加した者もいた。

sengoku38 はどのような人物なのだろう。興味はある。

以下は抽象的な話である。

いささか数学的な考え方だが——、ある回答が正解であるか否かは、問題との対応において決定される。その回答が真実を指しているかどうかは、あまり関係がない。

二・二六事件はそれぞれの当事者に大きな意味を持つ出来事だったが、下級兵士と青年将校と軍幹部と昭和天皇とでは、各人が抱えた現実は全く異なった相貌を見せる。将校たちは世のため陛下のためと信じて起ち上がったが、昭和天皇は激怒して彼らを叛軍と呼ばわり、鎮圧の陣頭に立とうとすらした。

三島由紀夫は青年将校の立場に視点を据え、翻って自衛隊が惰眠を貪っていることを問題とし、自らが正しいと信じる方向に歩んだ末、腹を切って死んだ。三島が一種滑稽にさえ見えるのは、我々が彼と問題を共有していないからである。

正解を求めるのではなく、何が問題なのかを精確に捉えるべきだろう。問題化に成功しさえすれば、回答は自ずと得られるものである。

2010/11/05/Fri.

先日の日記で、義憤に関して、二・二六事件と尖閣諸島中国漁船衝突事件について少し触れた。

本日未明、sengoku38 と名乗る人物によって、事件の一部始終を撮影したビデオが YouTube にアップロードされていることがわかった。このビデオは政府が公開を拒否していたものである。したがって本件は、国家機密の漏洩と捉えることができる。

日本は法治国家である(ことを標榜している)から、国は sengoku38 を逮捕し、法廷を開き、罪を問わねばならない。が、中国人船長——今回の映像流出によって、彼が有罪であることは明白となった——を早々に釈放しておきがら、sengoku38 に重罪を課すというのでは筋が通っておらぬ。

我々は尖閣諸島事件の真相に触れ得たことを喜ぶべきだが、同時に、政府の情報管理体制が崩壊していることを厳しく追求しなければならない。ここでも、やはり筋が通らぬ。

sengoku38 が現れたとき、どのような反応が起こるだろうか。愛国無罪という言葉がある。法的には犯罪者である彼を「英雄」として賛えることは容易であるし、心情的にも素直である。大勢が運動すれば、彼の量刑を軽減することも可能であろう。

五・一五事件は、まさに上記のごとく推移した。総理大臣犬養毅が暗殺されるという未曾有のクーデター事件でありながら、犯人である青年将校らへの判決は信じられないほどに甘かった。世論が沸き起こり、軍民からの助命嘆願が絶えなかったからである。このような決着が、後に二・二六事件を引き起こした。

我々は sengoku38 の義憤にどう対応すべきなのだろうか。大変に難しい問題であると思う。