- 自然と論理(二)

2010/10/08/Fri.自然と論理(二)

「自然と論理」について補足。

我々が化学物質であるのと同じ意味で、我々の行いは全て自然現象である。起こるべき事柄が起こるべくして起こるのが自然であるとすれば、「狂った」考えや「不自然な」行動などおよそあり得ない。存在した以上、それは自然の摂理に則った事物のはずである。というより、これまでに存在した事象の総体こそが自然なのである。したがってそこには秘密もなければ不思議もない。

とはいえ、この理屈は我々の日常的な実感とは少しく(あるいは大きく)異なる。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」

(京極夏彦『姑獲鳥の夏』)

中禅寺秋彦の台詞は、上記の乖離を鋭く指摘する。この世に在るのは「不思議である」と感じる「私」に他ならない。

不思議なことなど何もないはずなのに、不思議であると感ずる。これは矛盾である。この撞着に、ある者は不安を覚え、またある者は好奇心を抱く。どうにかしてこれらを解消しようとする。

言い換えれば、我々は常に自然的な在り方を希求している。その方法の一つである自然科学が志向しているのは、したがって秘密の解明などではなく、自然への回帰なのではないか。「自然が論理的なのではなく、論理が自然的なのである」と述べた所以である。

以下は、さらにまとまりのない妄想である。

上記の議論は、多くの論理体系が矛盾を認めない理由を説明するようにも思われる。我々は矛盾を、否定する形式でしか考えることができない。最強の矛で最強の盾を突いたらどうなるか——、そこで「実際に」発生する事柄を「具体的に」想い描くことはできない。ただ「矛盾である」として退けるしかない。起こらないことは思考できない。我々の思惟は自然の在り方を越えられないのである。想像力は無限大という言説は誤りであろう。

一方、論理的整合性を維持することが自然的な在り方を保つ=より良く生きることであるなら、たとえ否定するしかなくとも、矛盾は矛盾として認識せねばならない。これが懐疑の源泉なのではないか。漠然とした懐疑を不思議ともいう。これらを、より一般的に、「自分が考えていることを考える能力」といっても良い。

これは、脳の構造が階層的であること、特にヒトでは、最外層の大脳新皮質が発達していることと恐らく無関係ではない。そして、このような脳の進化=思考の発展は、様々な組織や器官が普遍的に持つチェック機能やフィードバック機構の、極端な肥大例に過ぎないようにも思える。

異常に高い精度で血糖値を制御する内分泌系を仮想してみよう。外から観察すれば、この内分泌系を有する生物は、あたかも血糖値を一定に保つことを目的として——それが identity であるかのごとく——生きているように見えるだろう。我々がその生物に対して抱く感想と、宇宙人が我々を観察した際に覚えるそれとは、大して変わらないはずである。