- Diary 2010/04

2010/04/28/Wed.

昨年度の科研費に関する報告書、今年度の科研費に関する申請書、来年度の科研費に関する計画書などを作成しており、肝心の科研費を使用する時間がない。

書類を作成していると「年度」という制度に苛立つ。どうして四月〜翌三月という気持ちの悪い区切りなのか。

東京大学に限らず、日本の大学が四月を学年歴の始めにしたのは、約七〇年前、一九二一年 (大正十 ) からである。これは法令によって決められたものではない。当時、大学制度を規定した最高法規は大学令 (一九一八年、勅令第三百八十八号) だったが、その条文にはこの種の規定はなく、また、当時の東京帝国大学を規制していた帝国大学令 (一九一九年改正、勅令第十二号) にもそのような定めはなかった。四月学年始期制 (以下、たんに四月始期制と記す) は、大学が自ら選んだものだった。

(寺崎昌男『東京大学の歴史』「I プロムナード東京大学史——学年歴」)

そもそも「明治維新の直後、東京大学の前身をなす学校ができたころ、学年の始めは秋、終わりは夏であ」り、旧制高等学校と帝国大学は長く九月始期制を採っていた。

一八八六年、「会計年度と一致しないため学校財政の処理に不便があること」「徴兵令による壮丁の届出の期限が従来の九月から四月に改正されたため、入学時期を九月にしておくと入学志願者が四月のうちに徴兵される可能性があること」などを理由に、高等師範学校が四月始期制を採用する。尋常師範学校、小学校、中学校、高等女学校がこれに続いた。しかし、大学は変わらず九月始期制のままである。

したがって中学校卒業と高等学校 (旧制) 入学との間には、半年間の余裕があったことになる。夏目漱石『三四郎』(一九〇八年発表) の主人公の第五高等学校卒業生が子ども連れの女性と名古屋の宿で寝苦しい一夜を過ごすのは、蚊帳のなかである。

(同前)

なかなか面白い。だが、三四郎が経験した「半年間の余裕」も、時代が進むにつれて「無駄」と解釈されるようになる。

はっきりいえることは、学校のつながりにムダを無くすことによって、高等教育修了までの「修業年限短縮」を実現しなければならない、という政府の強い意向が、あらゆる教育論をおさえてこの結論 (引用者註: 四月始期制) を導いた、ということである。

(同前)

結局、大学は四月始期制を容れることとなり、現在に至る。

では、大学四月始期制の遠因となった会計年度についてはどうか。Wikipedia を見ると、会計年度は各国で異なり、日本が四月始期制を採る際にも混乱があったようだ。詳しい事情は知らぬが、「当時の主要税目だった地租徴収に最も好都合であったため」という一文が明治政府の困窮を偲ばせる。いずれ調べてみたい。

2010/04/25/Sun.

環境問題を論じた本に折り込みチラシが挟み込まれているのは何かの皮肉か。売り物である本にゴミを挟んだり巻き付けたりするのは、そろそろ止めたらどうか。

個人的には本のカヴァーも要らない。特に、最近のカヴァーは帯が巻かれることを前提にデザインされているという本末転倒ぶり。意匠の全体性など求めるべくもなく、芸術的感興も資料的価値もない。やはりゴミである。

どうしてもカヴァーが欲しい人には、カヴァー付き初版本を部数限定で発売すればよろしい。もしくは、カヴァーを別売にしても良い。五十円ほど余分に払えば、カヴァーの PDF データが貰えるわけである。プリンタで印刷し、鋏で切って本に巻き付けたらどうか。個人使用に限れば何枚でも印刷できるから、汚損しても換装できるし、額縁に入れて部屋に飾るといった楽しみ方もできる。

そんなことをしている内に書籍は電子化される。これには賛成も反対もしないが、心配なのは、電子書籍における広告の扱いである。

インターネットが特にひどいが、あらゆる時空間の隙間に広告が挿入されているこの現状は何だろう。金銭を払い広告を掲載するという広告主の自由はもう充分に達成された。次は、金銭を支払ってでも広告を排除するという消費者の自由が確保されるべきだろう。アイマスクや耳栓を買うように、この自由を購入できないか。

2009 年の日本の広告費は約六兆円であるという。広告費は製品の価格に含まれているはずだから、日本人は一人当たりおよそ年間五万円ほどを、製品の中身にではなく広告に支払っていることとなる。

となれば、仮に「日本において一切の広告を拒否する権利および自由」を取得するとしたら、その対価も年額五万円が妥当となる。この金額をどう評価するか。支払っても良い、と個人的には思う。

2010/04/24/Sat.

「何が欲しい?」という陳腐な問いを真摯に考えよう。全てに満足し不足を感じぬ人間、何も求めぬ無欲で高潔な人間、そして極端にいえば今から首を吊ろうとしている人間ですら欲しくなるものとは何か。差し出しても決して断られぬものはないだろうか。

死に場所が欲しい、と思うことはある。

晩節を汚すことを厭い、生き方と同じく死に様を重視し、終わり良ければすべて良し、死者を祀り崇め奉る我々は、死に場所なら欲しがるのではないか。

金銭を断る者はいるだろう。権力や名誉を毛嫌いする人も多いだろう。異性に魅力を覚えぬ人間も少なくない。死に場所はどうか。死に場所を拒否する思想があるとしたら、それはどのようなものだろう。ちょっと想像しかねる。

もし仮に、自分に相応しい死に場所があらかじめ約束されているとしたらどうだろう。どんな苦吟もいつかは辿り着くはずの死に場所のため、全ての苦しみは自分の死に場所が自分に相応しくなるための過程なのである。全てを従容と受け止めることもできるだろうし、あるいは情熱をもって立ち向かうこともできるだろう。

しかしよく考えてみると、これは「死後は極楽へ行くのだから」という思想と大して変わりがない。真宗ではないか。

読書日記

2010/04/23/Fri.

先日見た夢が、まるで正夢や余地夢であったかのような実話を聞いて椅子からひっくり返りそうになった。あれは夢ではなかったのか。それとも今まさに夢を見ているのか。あるいはこの話を既に耳にしていながらすっかり忘れてしまい、忘却したがゆえに夢となってストレートに出てきたのか。もしそうだとしたら健忘症である。

私はボケている。

これは「私は嘘つきだ」というパラドックスと同じである。

「私はボケている」というセンテンスは肯定も否定もできない。つまり、私は私がボケているかどうかを判断できない。私にできるのは、せいぜい「今、私はボケていない」という瞬間的な否定だけであり、ボケている瞬間にボケを認識する、あるいはボケていた瞬間があったと証明するなどの肯定的な言明は一切不可能である。ボケに対する恐怖の根源はここにあるのではないか。

これでは夢と現実の区別が付かなくても仕方がない。

2010/04/22/Thu.

妹が結婚した。

弟の結婚式と同様、近しい親族のみで、式と食事会が開かれた。食事や贈物には細やかな心配りがされており、質素で心優しい妹の人柄がよく滲み出ていたと思う。

義弟となる男とは初対面だったが、言動は温厚で誠実そうであり、その性格によって恐らくはかなり回転が速いのであろう頭脳が前面に出ずに済んでいる、といった印象を受けた。これは妹が日頃接していた父や兄たちにはない美質であり、同時に、マイペースな妹と合致する気質でもある。これからの二人の幸せを願わずにはいられない。

おめでとう。

2010/04/19/Mon.

「料理のさしすせそ」なるものがある。

「味噌はこじつけやろ!」と松本人志が怒っていたことを思い出す。同感である。

こういうネタもある。

全部醤油じゃないか、というわけである。これの別ヴァージョンを考えてみた。

セルロースは多糖類だが甘味としての糖ではないよなあ。ソルビトールも少し苦しい。難しいものである。

2010/04/18/Sun.

愛犬シロと散歩する夢を見た。しばし寝床に留まり、甘い甘い想い出をボリボリと貪りながら涙を零す。シロが逝ってからもう四年にもなる。かつて実家での生活がそうであったように、この布団から抜け出したら手早く着替え、シロの首輪にロープを繋いで散歩に行くのだ。その願いが叶わぬものであればあるほど欲求はいや増し、今この街でシロと散歩するならば、などと妄想を繰り返している内に日が暮れた。

シロに会いたいなあ。

最近の夢に出てくるのは、過去の事柄か、そうでなければ妙に現実的なものばかりである。「やったぜヒャッホー!」といった夢のある夢、幻想的な夢のような夢には久しく出会っていない。

過去の夢、あるいは現実的な夢ばかりを見ているとどうなるか。夢と現実の区別が付かなくなる。

先日の夢もひどいものだった。知り合いの女性から「離婚しました」というメールを受信した。これは大変である。話題や接する態度に気を遣わねばならぬという意味で、こちらが大変なのだ。そもそも、仕事関係の人間に、結婚ならともかく離婚の報告をするのは一般的な慣習なのだろうか。よくわからぬ。女性は姓の問題があるから、あらかじめ本人から周知する方が良かったりするのか。とにかく、虎の尾を踏まぬよう、もう一度よく読んで内容を把握しておこう。などと考えながらコンピュータを起動する。しかし離婚メールが見当たらない。夢だから当然である。しかしそれがなかなかわからない。

わかったから良いようなものの、ひょっとしたら、まだ醒めていない夢が他にもあるかもしれない。

シロに会いたいなあ。

2010/04/12/Mon.

保険とはつまるところ賭博である。保険システムの発祥や、ロイズ保険の在り方を見ればわかる。保険者は親、保険契約者は子、保険会社は胴、保険勧誘員は呼び込みのチンピラである。

現代の保険が賭博と認識されていないのは、システムが洗練された結果、保険契約者にとって保険がローリスクになった = 賭博性が低くなったからである。

生命保険は「保険契約者の命がどのようにして尽きるか」を材に開かれた不謹慎な賭博である。しかし保険勧誘員にそのような認識はない。「保険に入りませんか = 博打しませんか」という勧誘ならまだしも、「保険に入らないなんてとんでもない! = 博打しろやコラ!」は言い過ぎである。そんなことはヤクザでも言わない。

保険に加入することが博打であるなら、「保険に加入しない」こともまた博打である、という奇妙な図式が成り立つ。保険に入らなければ、思わぬ事故により思わぬ重荷を背負うことになるかもしれないからだ。

つまり「加入しない」と判断している人間に対して加入を勧めるのは、賭博において、張った目を変えろと要請しているようなものである。やはりそんなことはヤクザでも言わない。

言うまでもないが「博打をする・しない」という判断は賭博ではない。「博打をしない」という選択はリスクを伴わないからである。

言うまでもないことを書くのは、「得な (になるかもしれない) ことをやらないのは損だ」という風潮が蔓延しているからである。「得なことをやらない」のは「損」ではなく「得ではない」だけである。どうして「損」になるのか。いったい誰が「損」をするのか。この手の言い種はバブル経済時の名残なのだろうか。

言葉の綾と笑うのは簡単だが、論理的なおかしさには注意するにしくはない。

読書日記

2010/04/11/Sun.

日常なんてつまらないものだと思う T です。こんばんは。

面白かったら、それは非日常だろう。

ライトノベルがあってヘヴィノベルがないのは何故か。そもそも俺はライトノベルを読んだことがないのだが、仮にヘヴィノベルが実在するとして、その性質を安直に推測すれば、

  1. 内容がヘヴィ
  2. 文体がヘヴィ

どう見てもドストエフスキーです。本当にありがとうございました。

冗談はともかく、どれだけ憂鬱で陰惨で「重たい」内容の小説でも、それが小説 = 虚構であるという点で最終的な救いがある。しかしこの「救い」は、同時に小説の「底」でもある。少なくともそういう疑念がある。

ここ数年、小説にはほとんど手を付けずにノンフィクションばかりを読んでいる。「これは実際に起こったことである」というノンフィクションの前提が、小説の「底」を突き破り、俺の妄想を一段と飛躍させるからだ。

しかしそれはプラセボ効果かもしれない。「ノンフィクション」と銘打たれたフィクションを読んでも、俺の妄想は飛躍するだろう。逆にいえば、俺はハナからフィクションをナメてかかっているともいえる。フィクションであろうと、真摯に読めば「底」を打ち破れることは、経験的には知っている。ただ、エネルギーが要るんだよなあ。

これは「事実は小説よりも奇なり」という古い古い問題とも関係する。「実際に起きたこと/起きなかったこと」に対して、人間はどれだけ想像の翼を働かせることができるのか、という問いである。「実際に起きたことの集合」と「人間が想像し得ることの集合」の差集合が、ノンフィクション、フィクションそれぞれの魅力であるともいえる。

日常とやらを描いた私小説の大部分がつまらないのは、内容の大部分が両者の積集合だからではないのか。ポエムも同様。日常は、描くだけなら最も簡単だが、興味深く描くのは最も困難である。

2010/04/10/Sat.

散髪に行きたい T です。こんばんは。

「どうでもいいこと」に対して、「どうでもいい」という態度すら取らない、というのはなかなか精神力の要ることである。

「本当にどうでもいいこと」には「どうでもいい」という感想すら湧いてこないし、そもそも関わる機会すらなかったり、目にしても意識に上ってこなかったりする。「どうでもいい」と思っている時点で、実は何らかの興味・関心があるわけだ。「"どうでもいい" と思いたい」というのが精確だろうか。この想いを誰かと共有したいという願望があるとき、その感情は「俺はどうでもいいんだけど」という表現になって顕れる。格好の悪いことである。

我慢が、我慢し続けることによってのみ我慢として成立するように、「どうでもいい」も、表現することを抛棄することによってのみ成立し得る感情なのかもしれぬ。他者を希求しないという点で、孤独といえば孤独である。

以前、創作物中の孤独について書いたことがあったが、このときは「他者 (鑑賞者を含む) による忖度」という方向性を考えていなかった。「ひょっとしたら彼は孤独なのではないか」「もしかして彼女は我慢しているのではないか」、そういう可能性の内にこそ、孤独や我慢、あるいは絶望といったものが存在するのかもしれぬ。

この解釈を拡大すれば、「本人が自覚していない孤独」などを考えることもできる。「忖度」が誤っている可能性も排除できないが、しかし「本人が自覚していない孤独」とはなんと哀しい状況か。未開の地の人間が、「オラの村の技術はなかなかのもんだべ」と疑っていないようなものか。違うか。よくわからん。「思い込み」とも関係ありそうだよな。

そんなことを言い出したら、全ての思考や感情を「思い違い」として片付けることもできるわけだが、実のところそうなのかもしれぬ。

2010/04/05/Mon.

囲碁と将棋は指し方を知っているという程度の T です。こんばんは。

囲碁については母方の祖父に教えてもらった。祖父から譲り受けた本が面白く、囲碁を指すよりその歴史にハマった時期もあった。棋士という職業も非常に興味深い。色々と読み漁った記憶がある。

さて、数日前のニュースである。

人工知能の話題を追いかけていると、「将棋のプログラムは随分と強くなった」という文句を定期的に見かける。日夜進歩している様子が門外漢にも伝わって来て、頼もしい限りである。一方、囲碁のプログラムについてはとんと噂を聞かぬ。

以下は、何かの本で読んだ話である。

史上最強の将棋指しは、当代最強の将棋指しであるという。将棋の戦略戦術は日々進化しており、過去の棋士より現在の棋士の方が明らかに強いという。だから史上最強 = 現代最強なのである。

囲碁は違うらしい。過去の本因坊と現在の本因坊、どちらが強いか。このテーマに対して衆目の一致する見解はないという。『ヒカルの碁』で有名になった、史上最強の呼び声も高い本因坊秀策は江戸時代末期の人である。他に、道策や丈和といった棋士 (いずれも秀策以前の人) も「最強」と称されることがある。将棋と違い、史上最強 = 現代最強とは必ずしも認められていない。

プログラムの問題も含め、将棋と囲碁のこの違いはどこから来るのか。

よくいわれるのは、序盤における囲碁の多様性である。駒の初期配置が決まっている将棋に比べ、真っ白の画布にデッサンの当たりを付けるがごとく始まる囲碁の序盤は、なるほど「手を読む」という感じが希薄である。また——素人考えではあるが——、碁石の「生死」という概念も、感覚的な要素が大きい (アルゴリズムに落としにくい) ように思われる。史上最強 ≠ 現代最強という囲碁の秘密は、このあたりに存在しそうである。

プログラムに関していえば、上記に加え、将棋盤が 9 × 9 マスであるのに比べて碁盤は 19 × 19 目と広い (= 選択肢が多い) という単純な事情もある。しかしいずれ、囲碁のプログラムも強くなっていくに違いない。

ところで、個人的な意見だが、コンピュータと棋士が対戦することに大した意味はないように思う。囲碁や将棋のような二人零和有限確定完全情報ゲームでは、充分な処理速度さえあればコンピュータは人間に勝利し得る。オセロという実例が既にある現在、より複雑な将棋においてコンピュータが勝利したところで、それは、計算機の速度やアルゴリズムが将棋に耐え得るまで改良されたいうことを示すだけに過ぎない。

もちろん、技術の発展は素晴らしいことである。しかし、それと棋士の価値とは全く別物だ。ピッチング・マシーンがプロ野球の投手よりも速くて正確な球を投げるからといって、それが何だというのか。そういう話である。アスリートやアーティストが機械と対戦する必要など一つもない。

だが、ここまで考えのある人は少数だろう。結果がどちらに転んでも、愚かしい論評が出て来るのは目に見えている。棋士のギルドである将棋連盟は、こんな挑戦を受けるべきではなかった。だが、断ったら断ったで批判があることも容易に予測できる。学会の「挑戦」そのものが王手飛車取りになっているというか。

結果に対する両者のリスク/リターンが違い過ぎるので、そもそも対等な勝負にすらなっていないと俺は思うのだが、お調子者の米長会長は「いい度胸」などと吹かしており、見ているこちらをハラハラさせる。「いい度胸」をしているのは、会長、あなたではないのか。コンピュータに親しみ、その実力を熟知している若い棋士などは、固唾を呑んで事態を見ていたりするのではないか。大丈夫か。

本音をいうと、科学の徒である俺は、プログラムが人間を打ち負かすところを見たいと願っている。と同時に、日本人である俺は、棋士がコンピュータに敗れることで将棋文化が衰退することを恐れてもいる。コンピュータに敗れた名人を見て、どこの子供が棋士を目指すだろうか。「コンピュータに勝つ将棋指しになるんだ」というファイトの燃やし方もないではないが、さすがにそれは本末転倒だろう。

どうにも嫌な予感しかしないイベントである。

2010/04/02/Fri.

ここ数年はほとんど古本を買っていない T です。こんばんは。

シェア

シェアとはよくわからない数字である。

例えば Web ブラウザ。俺は自宅で Mac と Win を併用しており、それぞれ Safari と Chrome をメインのブラウザとして使っているが、IE でしか閲覧できないページにアクセスするときは IE を起動せざるを得ないし、自分のサイトを確認するときは Firefox や Opera を立ち上げることもある。好みや必要に応じて、一人でも色々と使い分けているのである。

ゲーマーなら PS3 も Xbox も Wii も PSP も DS も全部持っているだろう。加えて携帯電話や iPod などの端末まである。俺は携帯電話、iPod touch、PSP を所有しており、そのいずれもがネットに接続できる端末であるが、寝床で俺がこれらのガジェットに手を伸ばすとき、その選択基準は「一番近くに転がっているもの」である。iPod の UI が優れているから iPod を手に取るわけではない。だから、販売シェアや接続シェアといった数字も眉唾ものである。選択肢が拡散しているだけではないのか。

シェアを重視する背景には「選択肢は一人一つ」という暗黙の前提がある。一人につき一台しか携帯端末を持てないのなら、シェアは重要な数字だろう。けれども現実にそんなことはない。かつてテレビは「一家に一台」であったが、今や一人一台が当たり前のようになっている。それと同じ拡散が個人レベルでも起きている。

「一人一つ」の前提に立つ「シェア」という概念は、貧しかった時代の遺物であろう。老人が出席する会議では必要な数字かもしれないが、消費者する側の人間が気にするようなものではない。

ゲームや書籍で中古販売が盛んな理由

少し話は逸れるが、似たような話題なので書いておく。

以前から不思議に思っていることだが、テレビゲームや書籍が、どの作品も同じ価格帯で販売されるのは何故だろう。製作費数十億円のゲームと、素人が趣味で作ったようなゲーム。あるいは、国民的な文学賞を受賞した作家の、面白いことが保証されているシリーズの続編と、無名の新人が書いた海のものとも山のものともわからぬ小説。内容に対する期待値の異なる両者が、ほぼ同じ価格で販売される。価格が同じであるから、その評価が販売本数に反映される。「100 万本突破!」「増刷 10 万部!」ということである。

もう少し融通を利かせられないものだろうか。「このゲームには莫大な製作費を投じました。したがって定価は高めですが、面白さは保証します!」といったセールスがあっても良い。本当に面白ければ高くても売れるだろう。逆に、どんなに安くてもクソゲーが売れることは決してない。ワゴンセールの存在がそれを証明している。

「無名の新人作家の作品が、芥川賞を受賞した作品と同じ価格では売れるわけがない。しかしこの作品は面白い。作者のネームバリューで売れないのはもったいない。大勢の人に読んでもらいたいから、低価格で販売する。なに、評価が高まれば次の作品で元が取れるさ」。そういう戦略が、なぜないのか。

ゲームや書籍で中古販売が盛んな理由は、どの作品の定価も大体同じだからではないのか。需要と供給のバランスを出荷本数にのみ頼っているから、均衡が崩れやすいのだ。もっと多様な価格設定があっても良い。そうすれば、腰を据えた大作なども生まれてくるだろう。

様々な事情があるのはわかるが、クリエイターや鑑賞者は、これらの事柄にもっと批判的であっても良い。

2010/04/01/Thu.

何とも投げ遣りな気分の T です。こんばんは。

良い野犬が野良犬だ。では悪い野犬は野悪犬か。などと馬鹿なことを考えた。

Web 日記

CSV 形式のテキストを HTML/XML の table に変換する CGI を作った。

単純な構造のデータをエディタでサクサクと入力したかっただけなので、複雑なことには対応していない。