- 文学線、分岐文

2010/03/28/Sun.文学線、分岐文

珍しく我が家のインターホンが鳴ったので驚いた T です。こんばんは。

居留守を決め込んだのはいうまでもない。

特定の時間を想起させる言葉が入った文章は必ず古くなる。色褪せ、くたびれ、それが一種ノスタルジックな雰囲気を醸し出すのならまだしも、目も当てられないほどカビ臭くなってしまい、読んだ人間に何ともいえないモヤモヤとしたものを感じさせる死文にはヒャア勘弁と叫びたくなる。だからこの日記では「"前"首相」のような表記は採用しておらず、理想をいえば「今年」「今月」といった単語すら使いたくないと考えている。いつだよ。「今年」って。しかし実際に使用を封印するのは難しい。

話は変わるが「——」(ダッシュ) のことを「文学線」と呼んでいるのを見かけて、面白いというか何というか、これは揶揄なのか、きっと揶揄なんだろうなあ、と一瞬考えさせるあたりが絶妙であると思った。

さらに話は変わるが、筒井康隆『エディプスの恋人』で使われている技法を改良した「分岐文」なるものを考えたことがある。単純な例を挙げる。

   父である信秀は永正七年に生まれたとされる。
   の
織田信長は天文三年、尾張に誕生したという。
   の
   弟・信行の生年には諸説がある。

分岐した文章の合流も考えられるし、分岐点や分岐方向をそれぞれの文章が意味する時空間と対応させるといった芸も思い付く。難点は読みにくいことである。媒体のレイアウトに依存していることも大きな欠点か。