- 文学観、占い、裏技

2010/02/20/Sat.文学観、占い、裏技

これからはゲームについても積極的に書いていきたい T です。こんばんは。

「心も身体も美しく」というフレーズが意味するところは、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という悪名高い言辞と大して異ならない。そのことを非難しているわけではない。精神と肉体が連動しているのは当たり前である。問題は、全てが「言い方」に集約される現状にこそある。

サラダ記念日

サラダ記念日というあの歌をどう評価するかで、その人の文学観のある一面が端的に現れるのではないか。まず詩歌に対するスタンス、次いでポエムに対するスタンス。俺が「ポエム」というとき、それは蔑称である。念のため断っておくが、サラダ記念日がポエムだといっているわけではない。

俺はサラダ記念日を一種のコピーだと思っている。あの歌の excellence はコピーとしての excellence である。ドレッシングの写真の横にあの歌を書いてみればよくわかる。俵万智という人をコピーライターとして眺めてみても違和感はない。

占いの科学性

「血液型占いに根拠はない」という証拠はないので、血液型占いの妥当性は否定できない、というのが科学的に誠実な態度である。「血液型占いなんて非科学的だよ」という言説こそが短絡で非科学的なのだ。非科学的と言明したいならば科学的な証拠を出さねばならぬ。もっとも、そのためには「性格」に代表される人間の特性を定義せねばならず、その時点で「科学」を標榜することは不可能だが。畢竟、占いを科学の土俵に上げること自体が無理なのである。

そも、占いが科学的に解析されるならば、それは既に占いではなく「予測」である。したがって「占いは科学的か非科学的か」という議論それ自体が、正月の盆踊りのように得体が知れぬ戯言に過ぎない。

占いにおける未来観

占いは、未来あるいは運命をどう捉えているのだろうか。「道を右に曲がれば死ぬ」という占い結果が出たとしよう。

未来が変えられる (運命は決定されていない) のなら、道を左折することで死を回避できる。果たしてそうなったとして、ではこの場合、占いはいったい何を占ったのだろうか。起こらなかったことを占ったとはどういうことだろうか。この占いは外れたのだろうか。

未来は変えられない (運命は決定されている) のなら、死を覚悟するのが精々である。運命決定論ならば、その覚悟も、占ったことすらも運命通りなのであるが。占うことすら運命に組み込まれた世界における占いは、いったいどういう意味を持つのだろうか。

多元宇宙論を採用することもできる。占ってもらった「私」が今いる「この宇宙」が、「右折して死ぬ私」「左折して生きる私」それぞれが存在する宇宙へと分岐するわけである。左折することで「この宇宙」は「生き延びた私が存在する宇宙」になる。右折した私もどこかに存在するのだろうが、それはまた別の宇宙の話である。多元宇宙論における占いは、別の宇宙を見る行為であると把握できる。しかしこの場合、私とはいったい何かという深遠な疑問が残る。

裏技・バグ技・チート

ゲームの話である。対人戦については考慮していない。

このネット時代、「知っている人だけが知っている」という意味での「裏技」が消滅して久しい。この言葉を目にする機会自体が減った。使っているのは年少者か頭の弱い人だけである。彼らは「バグ (技)」「チート」という単語も好んで使用して、大抵は叩かれる。

ある程度以上に年季の入ったゲーマーならば、ゲームを、単なるゲームとしてではなくプログラムとして把握し、またそのことに楽しみを覚えていることと思う。つまるところ、ゲームの攻略とはプログラム内容の推測である (解析は hack になってしまう)。AI、マスクデータ、計算式、フラグなどなどを推測し、仮説を立て、条件を整え、実際にプレイして検証する。まことに科学的である。嘘だと思うなら、そこらの検証スレッドを覗いてみればよろしい。

話が逸れた。語の定義である。

となるだろうか。最近では、これらの技がネットによって急速かつ広範に拡散するようになったため、特に「裏」という響きが似つかわしくなくなってきた。「裏技」が死語化しつつある所以である。

上記の定義でわかると思うが、それが裏技なのかバグ技なのかチートなのかは、プログラムの仕様や挙動、作製者の意図などを理解していないと判定できない。プログラムを理解した上での超絶プレイと、hack によるチート・プレイは、ゲームの遊び方として全く別の方向性であるが、年少者や頭の弱い人はこの区別が付かないので叩かれるのである。