- 槍玉

2010/02/06/Sat.槍玉

少し前のことになるが、プリンタを買ってきた T です。こんばんは。

ようやくというか、ついにというか。良くも悪くも、家で仕事がし放題である。

購入したのは、プリンタとスキャナが一体化した複合機というやつである。単体でもコピー機として使えるのが素晴らしい。インクジェットだが速度に不満はない。これで 8 千円というのだから、随分と安くなったものである。両面印刷のときに手で紙を差し替えるのは面倒だが、この値段なら我慢せねばなるまい。

世界はどこに行き、どこから来るのか

「私はどこから来て、どこに行くのか」という設問は果たして正しいのか。「私」を基準にするなら「世界はどこに行き、どこから来るのか」とも問えよう。宇宙には原点となるべき空間が存在しないから、上記のような問い方もあながち間違いではなかろう。この質問は同時に、時間について尋ねているようにも感ぜられる。

読書日記

池田清彦『科学はどこまでいくのか』という書物を開いてみたが、1 分で読むのを止めた。

しかし、科学はそんなにも信用できるものなのだろうか。

(中略)

科学は、核兵器を作り、公害を増加させ、人口問題と環境問題をのっぴきならないところまでもってきてしまった元凶である。

(「はじめに」)

この人は何を言っておるのか。

科学 (science) とは、自然 (nature) がどのように成り立っているのかを説明するために、事実と事実 (facts) を論理 (logic) で繋いだ仮説 (hypothesis) の体系である。ただそれだけである。もちろん、fact は真実 (truth) ではない。観測の閾値や実験の誤差など、様々な限界もある。しかし、科学はその自覚の内側にしか存在し得ないので、科学を「信用」するとかしないとか、そういう議論自体がナンセンス——非科学的——なのである。

科学がいえるのは、証拠 (evidence)、つまり実験結果という fact から、「これこれこういう理屈で原子が崩壊するらしい」ということだけである。その理論 (theory) を応用して核兵器の原理を打ち立て、モノとして顕現させるのは技術 (technology) である。Science ではない。

そして、核兵器の製造を決定し、その費用を出し、あるいはどこに配備し、どのように運用し、あるいは落としたり落とさなかったりを決めるのは政治 (politics) である。技術も科学も全く関係ない。

この人は、元寇の原因を船大工に求めるとでもいうのか。全く馬鹿げている。

公害や、人口や、環境の問題は政治と同時に経済が主たる原因ではないのか。科学が発展しなければこれらの問題は起こらなかったと強弁することはできる。しかし、それが許されるのなら、言語や数学を「元凶」として槍玉に挙げることすらできる。ムチャクチャである。便所紙以下の本である。

ところで、槍玉とは何であろうか。私は見たことがない。