- チャンピオン論

2009/12/01/Tue.チャンピオン論

チャンピオンとは不思議な存在だと思う T です。こんばんは。

「チャンピオンを倒した者が次のチャンピオンになる」という帰納的な定義がチャンピオンという立場をユニークなものにしている (初代チャンピオンはいかにして生まれたのかという疑問はさておき)。代々のチャンピオンを接続するこの継時的な性質——第 n 代チャンピオンと第 n + 1 代チャンピオンは「必ず」「直接」戦っている——は、トーナメントにおける優勝者のような一回性のそれとは自ずから異なる。トーナメントは一回々々が断絶しており、各優勝者は独立している。

例えば「元チャンピオン」とはいうが「元優勝者」とはいわない。このような言葉の使い分けは非常に面白い。他の言語ではどうなっているのだろう。この種の疑問に答えられる力が本当の語学力だと思うが、今は話を戻そう。

チャンピオンの対戦者は常に「挑戦者」であるが、前回トーナメントの優勝者といえども、次回トーナメントにおいては単なる一参加者に過ぎず、対戦相手とは常に同格である。参加人数が中途半端なときにシード権を与えられるのがせいぜいだろう。

チャンピオン制によって運営される競技はボクシングが最も有名だろうが、囲碁・将棋における名人位などのタイトルもチャンピオン制になっている。なぜだろう。これも興味深い問題である。

その性質上、チャンピオン制においては「ベルト」や「名人位」が「防衛」されたり「奪回」されたりする。「奪う」という表現に象徴されるように、チャンピオン制とはつまり王政なのである。さしずめトーナメント制 (リーグ制もそうだが) は共和制だろうか。

王座は奪われる運命なので、彼がチャンピオンでなくなったとき、手元にベルトは残らない。優勝者が自宅にカップやトロフィーを並べているのとは大きな違いである。だからこそチャンピオンは栄光に包まれる。チャンピオンがいつか全てを失ってしまうのを皆が知っているからである。だからこそ「元チャンピオン」なのだ。彼はもうチャンピオンではない。優勝者が死ぬまで「第 x 回優勝者」であり続けるのとは違うのだ。彼は「チャンピオンであった」だけの、ただの人である。チャンピオンであったことを証明するものはない。ベルトはいつも現チャンピオンの手にある。

さて——。

よくわからないのが相撲における番付制度である。横綱はチャンピオンではなく優勝者でもない。横綱という身分は、彼が戦う期間において有効であり続けるからチャンピオン的ではある。「元横綱」という表現もある。しかして彼は、一回々々の場所 (リーグ制の変種と捉えれば良いのか?) において他の参加者同様に土俵に上がる。そして、その場所で最も白星の数が多かった者が「優勝」する。だが、「2009 年大阪場所優勝者」とは決していわない。

ある期間における優勝回数などが横綱昇進の目安とされる。したがって、横綱という称号は棋界における永世名人的なものと考えることもできる。功労賞のようなものだろか。