- 私の体系

2009/11/18/Wed.私の体系

最近の冷え込みに閉口している T です。こんばんは。

昨日、「この日記がもはや日記というよりはむしろ随筆に近いものとなって久しい」と書いたが、この記述は、「この日記がはえらく散漫である」という私の印象に依るところが大きい。それでは散漫ではない日記とは何か。一つ考えられるのは作業日誌的な連続した記録である。しかしこの方法が封じられていることは既に書いた。

もう一つは、何かテーマを決め、それに沿った文章のみを書くことであろう。これはどちらかというとブログ的といえる。この考え方を推し進めれば、体系的に何かを綴るということになるのだが、それはもはや連載であり、本を書く行為に等しい。とても日記でやることではない。

日記云々はともかく、体系的に整った文章を書くというのは一度やってみたいことである。

「独特の歴史認識とか史観とかいった大層なものがなくとも、人はすべて自分なりの世界史を書くことができるのではないか」とは筒井康隆の言だが、これはなかなか面白い提案であるように思う。別に歴史でなくとも構わない。哲学だってよろしい。あるいはその人の科学的知識の限界内で書かれた理科の教科書でも良い。そこに現れる縮小された世界の描像は他人の興味を大いにそそるだろう。

哲学といえば、私はまともに哲学書を読んだことがない。原著の翻訳では、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』くらいだろうか。『論考』については、野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』という解説書も手に取った。他にまとまった書物といえば、マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー『存在と時間』註解』を一読したが、『存在と時間』は購入すらしていない。

私の知識は付け焼き刃もいいところだが、その中で諒解したことだけを話せば、ハイデッガーの哲学で愉快に感じたのは、その存在の定義の仕方である。「金槌はなぜ金槌なのか。釘が打てるからである」。こういう機能的な存在の定義があったように覚えている。重さがどれくらいなのか、柄の長さは、といった性質で金槌を定義することはできない。また、私にとってどこからどう見ても立派な金槌であるそれは、小さな少女には扱うのが困難で金槌としての用を足さないかもしれない。「それ」は少女にとって、果たして「金槌」であるや否や。

遺伝子は進化の過程でコピーされ、いつしかそのコピーがオリジナルとは全く別の細胞で全く異なる機能を発揮することがある。「起源が同じ遺伝子がなぜこのように分化した役割を担っているのか」という問題は興味深いが、答えは簡単であるともいえる。「その遺伝子コピーがその場で用を足したからである」。なぜかと問われても「偶然である」としか言い様がない。その「偶然」が保存されたのは、進化の淘汰に曝された結果の、半ば「必然」であるとはいえるが、その必然性もどこまで真に迫ったものであるかはわからない。その自然淘汰が起こった環境の生成が偶然の産物であるかもしれぬからだ。そういうことを帰納的に考えていくと、「この宇宙の存在は必然か偶然か」という命題に行き着くことになる。

だから私は、「進化論的な議論」というものに興味はありつつも、いささか懐疑的である。自然科学は「『なぜ』を問わず『どのように』を記述するだけ」という主張に賛同する。もちろん、進化が「どのように」起こるかはサイエンスの範疇であって、例えばスチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』などを読むことでその一端に触れることができる。

逆に、「なぜ」を問うことこそが哲学なのかもしれぬ。その説明に超越者を持ち出せば宗教にもなろう。「どのように」は記述するだけで済むが、「なぜ」には「説明」が求められ、論理的になるとは限らぬが、少なくとも体系的にはなる。人が「なぜ」と問う限り、そこには何らかの体系があるはずである。「人はすべて自分なりの世界史を書くことができる」というのは、畢竟そういうことではないか。

散漫な日記になってしまった。