- 言葉の豊穰

2009/11/12/Thu.言葉の豊穰

連夜の外食で胃がもたれ気味の T です。こんばんは。

昨日の日記で、「勘は、言語化されずに出てきた脳の結論である」と仮に定義したが、これに当て嵌まる現象は他にも沢山ある。一つは直感的な感想である。例えば、絵画や音楽を鑑賞したときに生ずる「あれは良い」「これはイマイチ」などの感想は大して言語化されているわけではない。それから、感情が存在する。「申し訳ない」「畜生め」「ありがたい」などはまだ言語化されている方で、涙が零れるような感動であるとか、胸を焦がすような情熱であるとか、およそ名状し難い感情は日常的に発生する。さらに、生理的な感覚というものがある。「熱い」「美味い」「気持ち悪い」などの感覚は本能に根差したものであり、最も言語から遠い活動であるといえよう。

これらの非言語的な「感想」「感情」「感覚」は、その発生要因も言語化されていないという特徴がある。というよりもむしろ、言語化された問題に対して非言語的な経過をもって回答をよこすところに「勘」の一大特質があるというのが本当のところだろう。そう考えるとスッキリする。

——今日は勘論がやりたいわけではない。

字句に対して上記のように拘泥していると、しばしば「言葉にはもっと拡がりがある」「言葉はもっと豊かである」という指摘が飛んでくる。しかし定義とは、ただ闇雲に言葉の範囲を狭める行為では決してない。

言葉は広大にして豊満である。全くその通りだ。そして俺が知りたいのは、その言葉が「どこまで」拡がり得るのか、「どれほど」豊かなのかである。「拡がりがあること」と「境界が曖昧であること」は全く別の事柄である。「豊かさ」についても同様。これらを混同していては真の拡がりや豊かさを認識することはできない。

例えば、境界を明らかにすることでニッチな領域を可視化できる。だからこそ、その小さな隙間を正確に充填する新たな言葉を生み出すこともできるわけだ。それこそが言葉の豊穰であろう。