- 食への渇望

2009/04/26/Sun.食への渇望

漬け物を買ってきた T です。こんばんは。

俺は漬け物が苦手で、壬生菜など特定のものにしか箸を付けてこなかったが、京都に来てからは色々と食べるようになった。歳を喰って舌が変わったからかもしれぬが、単純に、京都の漬け物が旨いというのが最大の理由だろう。

独り暮らしも 11 年目を迎えたわけだが、10 年間、毎日毎日コンビニ弁当を口にしているとどうなるか。食への渇望が凄まじいことになる。とにかく旨いものが食べたい。京都では、金を払えばいくらでも美味しい食事ができる。素晴らしいことである。別に食通を気取っているわけではない。旨いものを喰って、ひたすらに「旨い」と唸っているだけである。

「金を払えばいくらでも美味しい食事ができる」という現象は一考に値する。例えば、1 万円を出せば面白い本が読める、10 万円を出せば面白いゲームができる——かというと、そういうわけではない。これには諸々の理由がある。一つは、本やゲームがある種のマスプロダクトであるのに対し、料理は、その時その場に居る少数の人間に振る舞われる時限式少量生産品であるということ。もう一つは、俺が、本やゲームほど食事に対してレベルが高くないこと。要するに、料理に対する評価が甘い可能性。俺が「旨い旨い」と食べているものでも、食通にとっては大したものではないかもしれぬ。しかし「面白い」「旨い」は主観なので、自分が満足できればそれで良い。

それとも関連するのだが、「漬け物が苦手」だと、逆に漬け物の旨さがよくわかるという解釈もできる。つまり、よほど旨い漬け物でないと「旨い」と思えない。この観察は様々な分野に応用できる。苦手な物事を評価のバロメータにすると、やや厳しい判断を下すことができる。これは下限値である。反対に、自分の好むパラメータで評価すると、採点が甘くなる。これが上限値である。下限値と上限値が同じジャッジを下せば、それは素晴らしい (あるいはクソである) と判断できる。下限値と上限値が異なる評価を示す局面で、人は判断を誤りやすい。慎重に考慮すべきだろう。

「ラーメン道」的なものの存在がいまだによくわからぬ。なぜ「ラーメン」なのか。ラーメンの構成要素は、出汁、麺、具材というふうにほぼ固定されている。しかも、この三者は互いに (物理的に) 独立しており、各個での判断がしやすい。したがって、舌が粗い人間でもアレコレと語りやすい (= 競技人口が増加しやすい)。そういうことではないか。先日、ラーメンを啜りながら思い付いたことである。