- 私は文脈的な存在である、恐らく

2008/10/15/Wed.私は文脈的な存在である、恐らく

「1種の細菌のみで構成される生態系が見つかった」というニュースには本当に驚いた T です。こんばんは。

「過去に何があったのか」というのは証明不可能な問い掛けであり、それへの回答はどうしても「物語」にならざるを得ない——。これが歴史というものに対する俺の印象であり、そのことについては何度か書いた。

史料が豊富になる時代以降、「過去に何があったのか」は、主にテキストを基礎にして語られる。例えば『信長公記』に「織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取った」とある。じゃあそうなのか。

ことと、

ことは全く別物であり、『信長公記』の内容の真偽を判断する術というものは実はない。『信長公記』の記述によって『信長公記』の信憑性を担保することは不可能なのだ。考えれば当たり前の話である。

日本の歴史において、『信長公記』の内容は大体において嘘ではないと認められているが、この認定は他の史料との整合性によって成立している。『信長公記』の無謬性は他のテキスト群が形成する文脈によって保証されている、と換言しても良い。仮に『信長公記』に嘘が書かれていても、その部分が前後の史料から断絶して浮いてしまい、嘘であることがバレてしまう。つまり、ある史料の価値は他の史料の価値に依存しているわけで、この相互依存的な関係が文脈を形成する。

『古事記』を始めとする古代世界の記述では、初期の天皇は何百年も生きたことになっている。どのテキストでもそうなっている。では彼らは本当に何百年も命を長らえたのかといえば、やはりこれは嘘だろう。そんなことは現代の生物学の文脈が許さないからである。どうして生物学 (を含む科学体系) の文脈を無視できないのかというと、過去と現在の世界が一貫して連続している (と信じられており、またそれを否定する文脈が見当たらない) からである。

ちなみに科学の法則とは、観測された facts が形成する文脈であって、法則のような形の真理が存在するわけでは決してない。観測されたある fact の信頼性は、また別に観測された fact によって担保される。実験でいうなら、それは control であり追試の再現性であるわけだ。

本当に世界は文脈的な存在であるのか——。この問いに答えることはできない (なぜなら私たちがその世界の中にいるから)。しかし少なくとも、このことを前提としないと、生きる意味がなくなるんだよな (というか、恐らく生きていけない)。「私」が文脈的な存在でないとすれば、それはもう「私」ではない。

夢日記

口の中が砕けた硝子片でいっぱいになっている。唾液や血液と一緒に、硝子の破片をペッペッと吐き出す。大抵は四つん這いになっている。一所懸命にペッペッとやるのだが、口内の硝子はなかなかなくならない。——という夢を一年に一回くらいの割合で見る。いつもペッペッとやっている最中で目が覚めるのだが、昨夜はついに最後まで吐き出すことに成功した。何かをクリアしたのだろうか。よくわからん。

研究日記

ボスから書類仕事を頂戴する。「明日まで」。いや、俺は明日から学会なんだが……。まァ、やるけどさ。他に人はいないのかよ、という。