セーターを買うのって面倒なんだよな、と思う T です。こんばんは。
今朝は肌寒かったのでセーターを出したのだが、衣替えのときに洗濯したのが悪かったのか、丈がひどく縮んでおり、とりあえず着てみたものの、まるで大リーグ養成ギプスのような有り様である。時間もないことなので、あっちこっちをバリバリと引っ張り伸ばしてから、「よし!」(何がだ) と意気高らかに出勤したところ、テクニシャン嬢から「てろんてろんではないか」と怒られた。「何でそんなものを着て来るんですか」「セーフかなと思っ」「どう見てもアウトです」。本当にありがとうございました。
先週から試験している新しい測定キットで、調べたい parameter をめでたく定量化できたが、目的の遺伝子との相関関係はなかったという。まァこういうこともある。結果は芳しくなかったが、系が確立できたのは収穫だった。応用範囲は広いので、いずれ他のサンプルでも検証してみよう。という positive thinking。
前論は「『あたし彼女』について」を参照。
『あたし彼女』の文体がとにもかくにも画期的であることについては既に触れた。そしてこの文体が、「ケータイ小説」に実を与えるかもしれないなと妄想した。
もとよりケータイ小説を熱心に読んだことがないので大いに勘違いしているかもしれないが、以下に思うところを書く。
『あたし彼女』以外の候補作にも一通り眼を通したが、これらは従来のケータイ小説の延長線上に存在するもののように思えた。で、「従来のケータイ小説」がどういうものかというと、非常に意地悪な書き方をすれば、それは「単に未熟なだけの小説」でしかないのが実情なんだよね。携帯電話で読まれるだとか、そういう事情は小説の本質とは無関係である。逆にいえば、これまでは、ただの下手クソな小説を「ケータイ小説」と銘打つことで、その未熟さに眼を瞑っていたわけだ。そこには「ケータイ小説だから」という甘えと侮蔑が共存している。読書家を自認する者の多くが、ハナからケータイ小説を相手にしなかったのは、このカラクリを初めから見抜いていたからだろう。
何をもってケータイ小説とするのか、あるいはなるのか。この問いに対する明確な答えはない。そこで。
『あたし彼女』の文体の特異さは、この茫洋として実体のなかったケータイ小説というジャンルを新たに規定する (してしまう) のではないか——。これが俺の推測である。『あたし彼女』の文体と、ケータイ小説であることとの間には、本来的には何の関係もない。ただ、この斬新な形式が「ケータイ小説」として発表されたという、まさにその理由によって、これが以後のケータイ小説のスタンダード (の一つ) となる可能性は非常に高い。恐らく近い内に、『あたし彼女』式のケータイ小説が雨後の筍のごとく輩出されるだろう。
問題は (というか個人的な興味は)、この形式によって何を物語るのか、という点だよなあ。『あたし彼女』にしたところで、内容はお粗末の一語に尽きる。実験小説的な観点から、最初の一作だけはかろうじて評価し得るけれども、上記の課題を超えない限り、後続の小説はやはり軽侮の対象にしかならないのではないか。