ほんの近くにまで行きながら、桃山城のことを迂闊にも失念していた T です。こんばんは。
午前中に出勤して細胞のメンテナンスと実験を少々。
京阪宇治線に乗り込み、桃山南口駅で降りた。乃木神社に参拝するためである。
福田和也『乃木希典』および司馬遼太郎『殉死』を読んで、乃木神社が京都にもあることを知った。ここ以外にも、那須 (乃木の別邸があった)、下関 (乃木の郷里)、赤坂 (乃木邸の隣地) などに乃木神社があるという。
年譜を確認してみたが、乃木は京都と深い縁があるわけではない。にも関わらず伏見桃山に乃木神社があるのは、明治天皇御陵があるからである。乃木神社は、御陵の麓に、帝霊を護るように建立された。
京阪電鉄の取締役だった村野山人は、会社を代表する形で御大葬に参列した翌日、乃木の殉死を知り、ある決意をした。乃木の一周忌に会社を辞め、全財産を投じて、伏見桃山陵に北面する位置に乃木神社の建立を企てた。京都の乃木神社は、東京、那須、長府、北海道など五つある乃木神社のなかで、一番最初に計画されたものである。
(福田和也『乃木希典』「葬礼」)
駅を降り、「乃木神社 →」という看板に従って、鬱蒼と樹々が生い茂る山の中へ入っていく。伏見桃山御陵の案内が見えたので、こちらを先に訪れることにした。とんでもない大きさの参道を登っていくと、忽然と御陵が現れる。この素晴らしい風景については、また別途写真で紹介する (私の写真でその素晴らしさが伝わるかどうかは定かではないが。しかしそれを言えば文章とて同じことであろう)。
造成を委嘱された大林組は苦慮した。というのも、天皇陵、それも神道式の山陵を作るのは実に四百年ぶりのことだったからである。(略)
陵を作るという伝統がまったく絶え、その作法も様式も途絶したところで、大林組は山陵を作らなければならなかったのである。
(福田和也『乃木希典』「葬礼」)
これは面白い事実だが、しかしそうとは思えぬ完成度の高さである。御陵だけではなく、周囲の参道、木々の剪定まで、実に配慮が行き届いている。西洋式の荘厳さや荘重さはないが、いかにも厳粛で、日本的な冒し難さを感じる。
隣に桓武天皇柏原御陵もあったので、ついでに参拝してきた。これは近年になって改めて整備されたものと思われる。当時の御陵がどうであったかはよく知らない。柏原御陵周辺もよく手入れされており、質素で静謐な空気を漂わせていた。
余談だが、大正天皇と昭和天皇は、東京は多摩に御陵がある。昭和天皇までは京都御所で即位式があったが、今上陛下は東京で即位された。即位と陵墓、ともに京都が関係しているのは、近代では明治帝が最後である。
御陵の丘を降りて道路を渡ると乃木神社がある。何ということはない普通の神社ではあるが、日露戦争の軍司令室や、長府の乃木の実家を再現した建物は面白かった。日露海戦で散った英霊の碑があるなど、靖国的な役割もあるようである (乃木は陸軍)。
駅前で蕎麦を喰って帰宅した。
食事は、自家で打ったそばであった。希典はここ数年、ほとんどそばを主食にしていた。客に「ご馳走をする」と予告して招待したときも、出したのはそばだけであり、客はそのためにおどろいた。希典はこのそばという食いものにさえ、かれは自分のストイシズムとそれへの感動と他人への訓戒をこもらせていた。
(司馬遼太郎『殉死』「腹を切ること」)