福田和也『昭和天皇』を読んでいる T です。こんばんは。
とても面白い。
例えば小説でヒトラー的なるものが出てきたとしても、それはそのまま「ヒトラー的なるもの」として解釈されるのであって、決して「ヒトラーのパクリ」にはならない。でも、天皇的なるものを書いたら、それはすぐさま「天皇のパクリ」になっちゃうんだよね。それだけ天皇というものが独特というかユニークというか。
何が言いたいのかというと、俺は歴史を物語として読むことが多いんだけど、そこに天皇というものをポーンと放り込まれると、やっぱり歴史として真摯に対峙せざるを得なくなる。もっとも、この性質を持つ天皇は明治帝と昭和帝に限られるんだけど。しかしこれは、俺の人生が昭和に始まっており、微かに明治と地続きしているから、という身体的理由によるものかもしれない。だから、今上陛下についてはどうか、と問われるといささか返答に困る部分もある。平成はまだ歴史になっていない。
自分の身体と結びついている歴史と、別にそうでもない歴史とを別けて考えねばならぬのかもしれない。俺が割と科学史を熱心に読むのは、もちろん現在の仕事と関係しているからだ。一方で、ムガール帝国がどうこうと言われても、やはりピンと来ない。今の俺と全く関係がない (ように思える) ので。一口に歴史といっても、捉えて咀嚼する意識の部位が違うように感じる。近代以前の日本史になると割と自由な意識で読むことができて、絵巻物のように楽しむこともできれば、現在とのつながりに思いを馳せて堪能することも可能である。しかし近代に至って天皇というものをドーンと置かれると、どうも自在な振幅が失われる。
明治帝や昭和帝の話は、ちょっとおかしい日本の現状や自分の周囲の状況と似ている部分も多いし、基本的に「読んでいて辛い話」であることも大きく影響している。明治の御代の英邁さに僅かに救われることがあるものの、それも実態はギリギリの背伸びの上で達成された、血の滲むような物語である場合が多い。とても哀しいがゆえに愛おしい。切ないと言っても良い。その心象を天皇が体現してもいる。それゆえにまた辛くなるというか。
っていうか、この「天皇に自分の心理を仮託してしまう」という性向は、筒井康隆のいう「天皇とは日本人のスーパーエゴである」という仮説そのまんまだよな。これある限り、近代天皇論とは実は筆者の自己言及に過ぎないんじゃね? という問題が残る。それでは天皇を自分と全く切り離して「読む」ことができるだろうか? 日本人である以上、それは非常に困難なのではないか。かといって、外国人が天皇を理解できるとはとても思えないし……。いや、そういうふうに考えるのがダメなんだ、という話ではなかったか。むむ。難しいぜ。
病院で作成したサンプルを持って大学へ。研究員君の実験に供する。
夕方から、大学院の研究室の教授の最終講義を聴講。私は大学院に籍を置かせて頂いているが、日々の仕事は病院で行っており、この教授から特に何か指導を受けたというわけではない。けれども、そのような形で仕事をさせてもらえているのも、この教授が快く了承してくれたからであり、大変感謝している。院試の前に面談して頂いたとき、「医者だからとか医者じゃないからだとか、ここにはそんなのないから」と言われたのが非常に印象的だった。その一言で進学を決めたといっても良い。立派な先生だったと思う。